三沢航空博物館、マルヨン(F104)の続きです。

戦後7年間途絶えた航空技術を克服して作られた富士T-1練習機に続き、ついにわが国でも超音速練習機の開発が進められた。

富士T-1過去記事。

富士T-1  一番好きかなー、、。 | redtylerのブログ (ameblo.jp)

 

そしてそれはやがて退役するF86戦闘機の代替えとして戦闘機型も発生させるという壮大な物だった。

だが当時の政権はアメリカより米空軍でも採用になったT38タロンと、その戦闘機型のF-5フリーダムファイターの導入、ライセンス生産へ固まりつつあったのだが。

当時の松野防衛庁長官により国産超音速練習機の開発について検討するようにとの指示のもと、三菱重工、川崎航空機(現川崎重工)、富士重工の3社に検討させ、国産機が可能との判断により1967年T-Xの開発予算を計上し開発はスタートし、試作1号機は1971年7月20日に初飛行した。

 

訓練体系は前期の戦闘機操縦基礎課程と後期の戦闘操縦課程に分け、それぞれには違う仕様のT-2が使われた。

後期課程使用機では国産レーダー管制機J/AWG-11と20ミリバルカン砲が装備される。

 

 

こうしてわが国初の超音速機は練習機として誕生したわけですが、練習機としての飛行性能は申し分なく教育課程で亜音速練習機からいきなり超音速練習機へ進むギャップは埋められたという。

だか中低空時での絶対的な飛行性能、マニューバーコントロールは非力なエンジンと超音速時に適合した設計の小さな高翼面荷重の主翼では不利に働いた。

これはブルーインパルスの採用機になって世間にも露呈することに。

 

 

そう、ここ三沢にはブルーインパルス採用機も展示されています。

精悍なスタイルに公募によって採用された女子学生がデザインした塗装で人気を博したが。

浜松基地航空祭にて1982年11月14日に行われた基地航空祭で起きた事故により一時は飛行停止となり。

事故時に行った下向き空中開花は今後行わず、飛行高度を上げるなどして1984年7月29日より再開しています。

現在採用ののT-4は亜音速練習機で中低空時の性能は非常に高く、飛行高度も下げられて迫力ある演技を披露しています。

 

 

そしてさらにその隣にF-1だ、この機体はF-1の最終機でその記念塗装機だ。

F-1はT-2の量産2号機と3号機を改造してFS-T2改という機体を作りテストされ量産機は1977年2月25日に完成した。

特徴はT-2後期型に採用されたレーダー管制機J/AWG-11を更に発展させたJ/AWG-12を搭載し、国産の空対艦ミサイルASM-1を両翼下に2発下げて海面上数十メートルを亜音速で飛行して対艦攻撃能力を持つ日本ならではの運用機体でした。

 

勿論平時にはスクランブル任務にも就いて日本の空を守った。

だが対戦闘機訓練、ドックファイトはやはり得意では無く、対米戦闘機との訓練では米軍2機に対しF-1、6機などという屈辱的な比率で対戦していたという。

 

だが超低空対艦攻撃にはその高翼面荷重が幸いし安定した攻撃が出来たという。

それにしても電波高度計を頼りに海面上30~60メートル辺りを時速900キロ近くで飛行するというミッションはパイロットにもかなりの負担なのは明白で、その精神力にも感銘を受けます。

 

という事で以上のようなことを思いつつ機体を見ていると何か感慨深いものになってきますねー。

 

T-2、F-1について興味のある方にはやはりこちらがお勧めですね。

 

 

なんだが文林道の回し者みたいになっていますがそれだけ良く解説されている。

貴重な画像も。

 

 

 

開発から部隊運用に、やはり開発経緯や力学考証まで。

 

 

お好きであれば読み応え十分でした。

 

 

やっぱりオタクなんですねー、私、、。