レッドソックスファンの好事家ブログ




ジャッキー・ロビンソン


ジョージア州出身、スポーツ選手として頭角を現し、フットボール、バスケットボールバスケ、野球野球、陸上走る人の4つのスポーツで奨学金をもらい高校へ進学。その後、自宅から通えることを理由に1939年からはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へ進学 ロビンソンは黒人が仕事に就くのに学問は役に立たないと考え、1941年3月に名誉退学。

1945年にニグロ・リーグのカンザスシティ・モナークスに入団。

ロビンソンはチーム最高の打率3割4分5厘を記録、 ニグロ・リーグのオールスターゲームに遊撃手として先発出場 。ニグロ・リーグでは収入を得るため練習よりも試合を少しでも多く行っており、モナークスはナイター設備が導入されていたため、ダブルヘッダー。ホテルは黒人客を受け入れないため、選手はバスが食堂・寝室。大学時代に恵まれた環境で練習や試合を行っていたためニグロ・リーグの環境に適応できず・・・。

1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーにチームへ誘われます。リッキーがロビンソンに最も求めたことは「(どんな扱いを受けても)やり返さないだけのガッツを持ってほしい」。1945年8月23日に契約金3,500ドル、月給600ドルの契約でドジャースの傘下のAAA級へ入団。その時にリッキー「君はこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ」と説きました。10月23日にロビンソンがモントリオール・ロイヤルズへ入団したことを発表

1946年3月17日にアフリカ系アメリカ人として20世紀初の入場料を必要としたオープン戦に出場。オープン戦の期間中、ディープサウス地域では白人と黒人が一緒にプレイすることを禁止する条例があるところもあり、数試合が中止。

1946年4月18日にインターナショナルリーグが開幕。この年、ロビンソンが記録した打率3割4分9厘、113打点はリーグ1位で、打率は球団新記録。ロイヤルズはリーグ優勝を果たし、球団史上最多の80万人の観客を動員。プレイオフでも10月4日にロイヤルズの本拠地モントリオールで優勝し、ファンはこの勝利でロビンソンを抱きしめたり、肩に担ぎあげました。


1947年4月10日に「ドジャースはモントリオールのジャック・ルーズベルト・ロビンソンをメジャーに昇格させる。彼は直ちにチームに合流するだろう」と発表。開幕戦の4月15日に本拠地のエベッツ・フィールド には26,623人の観客のうち半数以上の14,000人はロビンソンを見ようとする黒人たち。

メジャーリーグのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団がロビンソンがメジャーでプレイすることに反対、フィラデルフィア・フィリーズドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告したり、セントルイス・カージナルスも同じように通告。それに対し、ハッピー・チャンドラー コミッショナーはドジャースを支持、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦拒否したら出場停止処分を課すと発表。監督のレオ・ドローチャー「自分は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。自分はこのチームの監督である。優秀な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」と語りました。

開幕前、ロビンソンは常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイト・監督・報道陣から受け入れられるようになりました。人種差別的な野次を飛ばす観客やロビンソン相手にだけラフプレーを仕掛ける相手チームの選手にチームメイトがロビンソンを守るようになりました。9月23日にはエベッツ・フィールドでジャッキー・ロビンソンデーが開催。

ジャッキーは打率2割9分7厘、12本塁打、48打点 、29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、この年より制定された新人王を受賞。別名を「ジャッキー・ロビンソン賞」とも・・・。

1948年からは二塁手として出場。体重の増加に伴い、走力が落ちたため、レオ・ドローチャー監督から批判。6月24日に本塁打を放ってからはスランプを脱出、チーム1位となる打率2割9分6厘、85打点を記録。8月24日にストライクの判定をめぐってロビンソンとチームメイトは抗議し続けたため、審判は警告。ロビンソンだけはその後も抗議し続けたため退場。ロビンソンは黒人と言う理由で退場させられなかったためうれしかったそうです。


1949年は自己最高の打率3割4分2厘、37盗塁を記録し、首位打者と盗塁王を獲得。MVPに選出。この3つをセットで獲得したのはロビンソンイチロー だけです。黒人選手としてロイ・キャンパネラ 、ドン・ニューカム、ラリー・ドビー とともに初のオールスターゲームに出場を果たし ロビンソンは1954年まで6年連続でオールスターに出場。また、1949年から6年連続で3割を達成。1950年1月24日に球団史上最高額の35,000ドルで契約。お金


1955年は自己最少の105試合の出場で、打率2割5分6厘、8本塁打、36打点と自己ワーストの成績も、ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを破り、球団史上初のワールドシリーズ制覇。王冠11956年シーズン終了後の12月13日にジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、ドジャースにいられないならばと翌年の1月23日に引退を表明。引退後、公民権運動に積極的に参加。

1962年には1939年のルー・ゲーリッグ 以来となる有資格初年度で野球殿堂入り。1972年 6月4日 、ロビンソン42と共にロイ・キャンパネラ39サンディ・コーファックス32の背番号がドジャースの永久欠番に制定。

糖尿病により視力が落ちたり、関節炎や軟骨剥離。1963年1月に左足の手術 。永久欠番の式典に出席した時には杖なしで歩けず、右目は失明。1972年10月24日、スタンフォードの自宅で死去。

ロビンソンの死後、レイチェルは非営利財団「ジャッキー・ロビンソン財団」を創設。ロビンソンの活躍はメジャーへの黒人選手受け入れを早める役割を果たし、ハンク・アーロンウィリー・メイズ のメジャーデビューの足がかりとなりました。


ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日、ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番。同日、ドジャースメッツ戦が行われたニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムで式典。ただし、マリアーノ・リベラ など、それ以前から背番号42をつけていた選手に関しては特例として背番号42を継続使用することが許可。1999年には、メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームの二塁手部門に1位で選出。

2004年4月15日にMLBはこの日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定 。2009年はメジャーリーグの全選手、監督らが42番を着用。ロビンソンの現役時代には「ロビンソンが球場に来たら射殺する」という脅迫があり、チームメイトがそれをからかって「ジャッキー、俺から離れてよ!撃つやつが下手だったら俺に当たるだろう」(言ったのはピー・ウィー・リース )、「全員で42番を着ればいい!そしたら誰がロビンソンか分からなくなる」(誰が言ったのかは不明)ということがあったそうですが、今、全員で42番を着用しているとは面白いですね。


ピー・ウィー・リースのところでも書きましたが、ロビンソンには自らの成功だけでなく後に続く選手の運命もかかっていました。その切り拓いた道にはもしかしたら黒人選手だけでなく中南米の選手やアジアの選手の道もあったかもしれません。その責任を全うしたロビンソンその功績は幾ら称えても称え切れません!


<最終更新日 2013年2月3日>