レッドソックスファンの好事家ブログ




ダリル・ストロベリー


クレンショー高校時代は「黒いテッド・ウィリアムズ 」の異名を持ち、クリス・ブラウンとチームメイトで、エリック・デービスがライバル。 1980年のドラフト会議で、当時下位を低迷していたニューヨーク・メッツに全米1位で指名され、入団。


約3年を傘下マイナー過ごした後、1983年5月6日にメジャーデビュー。シーズン途中の昇格で122試合の出場、26本塁打を放ち、ナショナル・リーグの新人王に選出。1984年にも26本塁打、97打点を記録し、初のオールスター出場。1985年には故障のため111試合の出場に終わるが29本塁打。


1986年、27本塁打、99打点を記録して、この年のワールドシリーズ優勝に大きく貢献。王冠11987年には39本塁打・36盗塁を記録し、「The 30-30 Club」(30本塁打30盗塁)を達成。チームメイトのハワード・ジョンソンも30-30を達成し、史上初の同一シーズン同一チームから複数の30-30。また、かつてのライバル、エリック・デービスもこの年30-30を達成。

1988年には39本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得。王冠1メッツはナショナル・リーグ東地区を制し、プレイオフに進出したが、ロサンゼルス・ドジャースに敗退。1989年は不振のため打率2割2分5厘、29本塁打、67打点に終わるが、1990年 には37本塁打、108打点。チームは二年連続でナショナル・リーグ東地区2位に終わり、ストロベリーはこの年限りでメッツを去り、故郷のドジャースと5年2,225万ドルの契約。お金


ドジャースに移籍した1991年、28本塁打、99打点の活躍。この年、エリック・デービスがチームメイトとなったが、ここから故障等もあって急降下し、続く2年は各5本塁打に終わり、1994年開幕直後に解雇され、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約。1994年もわずか4本塁打に終わり、翌1995年2月にコカイン使用で出場停止となり、ジャイアンツを解雇。


1995年には独立リーグのセントポール・セインツでまずプレイし、出場停止処分が解けた後、7月4日にニューヨーク・ヤンキースと契約。メッツ時代のチームメイトで、やはりドラッグで堕ちたドワイト・グッデン と再びチームメイト。翌1996年 には、63試合の出場で11本塁打を放ち、かつての輝きを取り戻すとともに、チームのワールドシリーズ制覇に貢献。王冠1


1997年には再び故障で11試合の出場、翌1998年には101試合の出場で24本塁打。
しかし、ポストシーズンを前にした10月1日に大腸ガンの診断を受け、手術。病院


1999年4月3日にはフロリダで逮捕され、出場停止処分を受けた後、ガンからの感動的な復帰を果たし、24試合に出場して3本塁打。この年自身4回目のワールドシリーズ制覇を王冠1成し遂げるが、翌年再びコカインの陽性反応を示し、1年間の出場停止処分を受け、そのまま引退。


2006年8月19日にメッツの本拠地シェイ・スタジアムで試合前に行われた1986年のワールド・チャンピオン・チームのリユニオンに登場し、メッツファンのスタンディング・オベーションを受けました。


コカインなどの薬物のみならず、私生活でもトラブル続きだったストロベリー才能に満ち溢れていただけにそれを浪費してしまったことが何よりももったいないですね


通算335本塁打、221盗塁と打つだけの選手ではありませんでした。