レッドソックスファンの好事家ブログ





ジョージ・ブレッ


ロイヤルズ一筋の現役生活をおくった球団史上最高の打者。1980年に打率3割9分を記録し、テッド・ウィリアムズ 以来の打率4割達成に近づきました。

1971年、ドラフト2巡目でロイヤルズに入団。2年後の1973年、メジャーに昇格。

1976年に打率3割3分3厘で初の首位打者。1番打者としてシーズン200安打を2度記録、メジャーを代表する巧打者に成長し、同年からの3年連続アメリカンリーグ西地区優勝に貢献。いずれもニューヨーク・ヤンキースとのリーグ優勝決定戦に敗れたが、1980年、初のワールドシリーズ出場。

この年はレット最高のシーズンと言え、オールスター明けから調子を上げたアップブレットは9月19日まで打率4割以上をマークしてテッド・ウィリアムズ以来の打率4割を達成できるかと期待されたものの、その後不調に陥るなど打率を下げ、結局このシーズンは打率3割9分で2度目の首位打者。またこの年アメリカンリーグMVPを受賞。王冠1


その5年後の1985年には、悲願のワールドシリーズ制覇に貢献し、王冠1ゴールドグラブ賞も獲得。1990年に打率3割2分9厘で3度目となる首位打者を獲得。3ディケイド(1970年代、1980年代、1990年代)で首位打者に輝いたのは現在もブレットただ一人。1992年には3000本安打を達成。1993年シーズンを最後に現役を引退。

1979年5月28日と1990年7月25日の2度、サイクルヒットを達成。 通算3154安打 317本塁打 1595打点など、ニックネームである「ゴージャス・ジョージに相応しいロイヤルズでの数々の球団記録を保持し、1999年には資格1年目にしてアメリカ野球殿堂入り。現在ロイヤルズの副社長。


ジョージ・ブレットの野球人生野球で一番有名なのがこの事件。発端は1983年7月24日、ヤンキー・スタジアムでのニューヨーク・ヤンキースカンザスシティ・ロイヤルズの試合。4対3とヤンキース1点リードで迎えた9回表2アウト、ランナーを1人置いてブレットが起死回生のホームランを放ち、4対5と逆転。ヤンキースの監督ビリー・マーチン が抗議。マーチンは、ブレットのバットに塗られた松脂(パインタール)が18インチという規定の範囲を超えていると主張。球審のティム・マクレランドはそれを認め、違反バットを使ったブレットはアウト、すでに2アウトだったので試合終了という判定。ブレットは猛抗議したが判定は覆らず。実は、マーチンブレットのバットが違反であることを以前から知っていて、そのことを持ち出す好機をずっとうかがっており、これ以上ない場面で指摘。ロイヤルズはこの裁定について提訴。試合の4日後、アメリカンリーグのリー・マクフェイル会長は、ブレットはルールの精神を犯したわけではないとしてロイヤルズの提訴を支持。つまりホームランは有効なので、5対4の9回表2アウトから試合を再開しなければならないこととなります。


また主催者であるヤンキースは、再試合は残り4アウトしか残っていないのに入場料は普通の試合と変わらない額にすると発表。すると怒ったむかっファンが裁判所に訴え出ました。ある裁判所などは、正式な試合をするようにという判決。とうとう裁判はニューヨーク最高裁の上訴審まで持ち込まれ、結局、裁判長のジョセフ・P・サリバンは「プレー・ボール」という判決を下し、料金は割安で9回表2アウトから試合は再開。ブレットのホームランから25日後の8月18日、試合の残りは10分足らずで終了し、騒ぎはようやく決着。


ブレットが受賞した賞は以下のとおり。

アメリカンリーグMVP1回:1980年

リーグチャンピオンシップシリーズMVP 1回:1985年

首位打者 3回:1976年、1980年、1990年

最多安打3回:1975年、1976年、1979年

最高出塁率 1回:1980年

ゴールドグラブ賞1回:1985年

シルバースラッガー賞3回:1980年、1985年(三塁手部門)、1988年(一塁手部門)


すごい騒ぎとなった松やに事件ですが、これはマーチンの策略。カンザスシティのフランチャイズ・ヒーローとして活躍したブレットの名は今でもカンザスシティの市民の記憶に残っているでしょう。


現役最終打席のイメージを聞かれると「平凡なセカンドゴロを放ち、1塁で間一髪アウトになりたい。それが子供たちに伝えるメッセージだ」と印象的な言葉。ブレットが達成できなかった4割を達成するのは誰でしょうか?