ルー・ブードロー。史上最年少の選手兼任監督であり、ブードロー・シフトを考案したことで有名。
イリノイ大学から1938年インディアンスに入団し、9月9日メジャーデビュー。1940年は9本塁打ながら101打点を記録。1941年オフにチームの会長に手紙で監督就任を願い出て、翌1942年史上最年少(24歳) の兼任監督に就任。チャンスに抜群の強さを見せる打撃と共に、堅実な遊撃守備で魅せました。1940年から1948年までの9年間でリーグ守備率1位を8回記録。彼の好守備で最も有名なのは1941年7月17日、ヤンキース戦の8回表、ジョー・ディマジオ の打った痛烈な二遊間のゴロを横っ跳びで押さえ、併殺を完成。これにより、この試合無安打に終わったディマジオは連続試合安打記録を56試合でストップさせられます。
1944年は打率3割2分7厘で首位打者を獲得。1948年は監督としてはニューヨーク・ヤンキース、ボストン・レッドソックスとの激しい三つ巴の末、レッドソックス相手の1試合プレーオフに勝利してリーグ優勝。さらにボストン・ブレーブスとのワールドシリーズを4勝2敗で制してチーム28年ぶりの世界一を達成。
打者としても打率3割5分5厘、18本塁打、106打点の活躍で、ア・リーグMVPを受賞。![]()
1951年兼任監督としてレッドソックスに移籍。1952年34歳で現役を引退。1954年オフに監督からも退きます。1955年から1957年途中にかけてカンザスシティ・アスレチックス、1960年にはシカゴ・カブスでも監督を努めます。監督としての成績は16年間で1162勝1224敗。1948年の世界一以外は3位が2回だけですが、ボブ・レモンを三塁手から投手に転向させ、殿堂入りさせるなど多くの選手を育て上げました。
1970年アメリカ野球殿堂入りを果たし、背番号5番がインディアンスの永久欠番。2001年8月10日、イリノイ州の自宅で死去。
1946年7月14日、レッドソックスとのダブルヘッダー第2試合、テッド・ウィリアムズ の第2打席、インディアンス守備陣は投手と捕手を除いた野手7人のほぼ全員がフィールドの右側に移動するという変則守備シフトを敷きます。一塁手、二塁手、そして遊撃のブードローまでもが一、二塁間に寄った上、左翼手が極端に前進するこのシフトは後にブードロー・シフトと称されます。ウィリアムズはその前の第1試合で3本塁打を放っており、プルヒッターであった彼をどうにかして抑え込もうとしたブードロー苦心の作戦でした。
日本でも対王貞治守備シフトとされる王シフトの原型は、このブードロー・シフトです。
現在でも「プルヒッター対策でシフトを敷くチーム」は多いですが、監督としてはじめて導入したルー・ブードローの功績、野球の戦術に与えた影響は大きいですね。
