最初からぶちまけるが、宮台真司も言っているようにネタバレはさして重要なことではない。何を描こうとしているか観て考えることが重要なのだと私も思う。
町山智浩がyoutubeで「『香川1区』はエンタメとしてはいいかもしれないが、撮るべきテーマが無い作品だ。大島監督はもう小川淳也を描いてる場合ではない」と酷評していたのを聴いて、かなりバイアスがかかった状態で観に行った。
そうは言っても「香川1区」の見どころのひとつは自民党の選挙活動の狡猾さと強さが浮き彫りになるところで、劣勢と判断すれば現職総理大臣をアッサリすげ替えるなんてのは序の口で、地元の県会議員、市会議員、商工会などの根回しも徹底している。想田和弘監督の「選挙(2007年)」を思い出しながら楽しめたが、今回、小川が平井卓也を大差で下した事実はまさに「事実は小説より奇なり」で、清貧な弱者が狡猾な巨悪を倒した構図が見えて痛快だった。実際に世の中はそんなに単純ではないとわかっていても本当にこういう人が当選せにゃいかんと思ったのも事実だ。
社会学者や識者の多くが発言しているように、有権者の多くが選挙を自分ごととして考えてはおらず、地縁や付き合い、地域の同調圧力によって投票先を決めているという。それは香川だけでなく一部の都市をのぞいて全国的にそうなのだろう。そういった“土壌”をよく理解している自民の平井卓也陣営は、街頭演説における動員と独自のネットワークで票固めをしていく。道路や橋などの公共事業をおさえていることもあり、地元の土建業や観光業者は確かな票田なのだから普通に考えたら小川が小選挙区で勝てるわけがない。
そこにこそ日本が抱える問題の本質があり、本気で代議士になろうという若い世代が出てこれない原因があることを「儀式(1971年)」を撮った父である大島 渚であれば描いただろうと町山は言っているのだ。平井陣営の懐に入って油断させ、平井卓也の人となりを赤裸々に語らせることで日本の選挙や政治で起きていること、つまり持てる者が持たざる者を支配しているという構図が浮き彫りになる。そんな作品にすることもできたと思うと個人的にはもったいなく感じる。
平井の街頭演説場面で、彼は「立憲の候補者(小川のこと)はPR映画なんか作っている。こんなことでは立候補者すべてが映画を撮るようになってしまいますよ」と言って批判している。そんな平井にこそ、まさにモミ手をしながら「先生の作品を作らせていただきますよ」と近づくべきだったと町山は落胆しており、それこそがこのドキュメンタリーの本懐ではないのかというわけだ。私もこの場面を観ながら、大島監督が無理なら是枝裕和監督作品で観てみたいと思った。
カメラを構えるプロデューサーの前に立ちはだかり、言いがかりをつけながら撮影の邪魔をするおじさんが登場するが、これは宮台真司の言うところの「沈みかけた船の座席争いをしているあさましい人間」的でおもしろい。平井や自民党といったトラの威をかっていてバリバリ小物なのだが、既得権益にすがっていれば自分は生き延びられると思っているものの、自民党的なるものの切り捨て体質もわかっているから生き方に“ゆとり”が無いのだろう。それにしても女性のプロデューサーがひとりでカメラを構えていたから強引な妨害をしたのだろうが、オレが通っている町道場の猛者が数人同行していたら同じことをしたのだろうか?
話を戻そう。大島監督は今回の「香川1区」を観る者を触発させ考えさせるのではなく、楽しませる方向に振って作ったと思う。先述のような可能性を考えれば残念だが、現実に起きた“奇跡”を伝えるエンターテインメントとして楽しかった。
小川淳也は将来へのビジョンがありそのための政策も持ったデキる代議士だが、選挙戦では愚直に自転車で選挙区を走りながら名前を連呼する旧態然とした選挙活動を行う。「正しいことだけを言っていれば有権者は理解してくれる」わけではないという現実が浮き彫りになり心動かされた。彼自身だけでなく家族や彼を応援する人の愚直さを追うことも、このエンタメ路線においては正しい。
少し唐突だが私は世の中や自分に絶望していて、どんなにがんばっても思うように報われることはないし、なんだったら正直者はバカをみるものだと思っている。だから彼の長女が当選直後の挨拶で言った言葉には泣けた。
“日本すげえ”番組が大好きな人のような極端な人だけでなく、凡庸な悪に染まりやすい大衆とは空気や“風”に流されやすく、目先の利益に翻弄されるのだ。まさに「貧すれば鈍する」。私はいつも自分に対して警戒する。この「鈍する」側に自分もいるかもしれないことに。
小川は清貧を地でいくような生き方を貫くが、貧しても鈍しない。エリート官僚の道を捨てて進んだ代議士の道で挫折続きだったのだが、今回ようやく小選挙区での勝利を手にする。これははじまりであると同時に、旧態然とした世の中に耽溺して変わることに否定的な現在の大衆に踏みつぶされる悲劇のはじまりのようにも見える。