この間、言葉についてくどくどと書いたのだが、ふと気づいて、そのままにしとくのは忍びないので書くことにする。


「なので」「~なのです。だから~」という意味で使われているとしていたが、「いや、ちょっと待て。ただ単純に『そういうわけなので』ではなかろうか?」と考えたわけだ。何らかの文章が前にあり、それを踏まえて「そういうわけなので」という役割かもしれない。トータルな意味合いとしてはどちらでも通じるかと思うが、『そういうわけなので』を端折っていると考えた方がシンプルでわかりやすいだろう。


そういうわけで、「なので」『そういうわけなので』を端折っていると考える。

それなら、この言葉の使い方は問題ないだろうか?

やっぱり問題があると言わざるを得ない。というより、僕は問題にしたいのだ。


何よりも、相手がそのつもりかどうかという点だ。相手との相互理解があってのものなら、条件付きで「よし」とする事は出来る。だが、まだこの言い方は新しいものであって、誰もがすんなり抵抗なく受け入れられるものではない筈だ。厄介な事に、この「なので」は割合やんわりと話の合間に挟みやすく、親しくない相手に対して使いやすい言葉。やや距離のある場合や目上の方との会話に重宝する。親しい相手なら「だから」や「それで」などの直接的な表現を使うだろう。

それがいかんのだ。

気心の知れていない相手との会話に使うのに、敢えてわかりづらい言い方をする事になってしまう。そういうケースの会話では、端折る事が可能な言葉でもむしろきちんと言うべきだからだ。

『そういうわけなので』と言いたいのなら、そこはちゃんと言うべきだ。

それを端折って「なので」とやり過ごす。

やっぱり相手に失礼だと思う。


そこには「これくらい理解しろよ」という姿勢が垣間見える。

そうして、「わかりにくいんだったら、それでも構わねぇよ」的な、自分だけを中心に据えたスタンスが透けて見えるのだ。


こういう具合に考えた結果、最初に考察した 「~じゃないですか」と同様の、「相手を見下す態度」に棹差す物言いである事がわかる。

僕は使いたくない。

1月スタートのドラマ、日テレの「演歌の女王」を観た。

初回の放送では、「なにやらつかみきれんなぁ」という印象。

二回目の放送を観た段階で、「つかみきれん」と同時に「いらいらしていた」理由が少しわかった。

このドラマはもちろんコメディであり、シリアスとコミカルとを織り交ぜながら何がしかの教訓を残し、時に笑わせ、時にほろりとさせるという作品だ。それはわかるんだが。


まず天海祐希がコメディには向いてないと思う。

ご存知のように、彼女は先の「女王の教室」で教育者とは表面上思えない極端な鬼教師を演じた。実際こ、怖かった。本当はとっても愛に満ちた人だったんだけどね。

その前は確かフジの「トップキャスター」でキャリアウーマンだったと思うがこれを僕は観てない。その前の記憶はこれもフジの「離婚弁護士」だがこれも観てない。

三作は教師、キャリアウーマン、弁護士という事で、割合ときっちりとした社会的に見ても自立した強い女性のイメージ像だ。ファッションもそれぞれスーツが多いはずで、きりっと表情引き締まり、何らかのトラブルに当たっても持ち前の機転と知性と行動力で結果的には立派に解決する。

だが、この「ひまわり」はどうだ?全くのぐずぐず。優柔不断が帯しめて歩いている。イメージとは全くかけ離れている。もちろん女優だから、それは演技なんだが、ちと無理があるといわざるをえない。

確か、今回の番組改編で終了したような気がするが、「ココリコミラクルタイプ?」で小芝居を演じていた出演者に松下由樹がいる。正直、彼女にはコメディはそぐわないとずっと感じていた。背筋がぴんと立った、肩幅のやや広い、強い瞳をたたえた松下由樹のコミカル演技には違和感が付きまとっていたから。そして天海祐希もその系統だと思うのだ。鼻筋の通った顔立ちと、やはり伸びた背筋にすらりとした足で、背も高い。似合わないよ。はまり役の正反対役だと思う。「ひまわり」の役なら、例えば夏川結依とかの方がしっくりきそうだ。


コメディとわかっていても、非現実的なヒトシの行動。

モト彼として登場しているヒトシ(原田泰造)だが、こいつの行動は非現実的に過ぎないか?ひまわりにしゃあしゃあと「金つくれ」とか、過去に結婚していて(しかもひまわりと付き合っていた当時らしい。更に親にも秘密らしい)子供もいて、その養育を放棄して離婚して、その子供が会いたいと言って目の前にいるのに「俺そだてらんねぇ」だ。ドラマを作るが為の脚本なんだろうが、突飛だ。

フィクションは、リアルに作れば作るほど入り込めるものだと思う。作り事だからこそ本当っぽく作られたものに、より感情移入できると思うのだ。逆にノンフィクションなら淡々としたものになる。たとえ大変な事であっても、飾らない口調で速やかに話が進められていった時にやはり、よりリアルを感じる。もっと本当っぽくして欲しかったと思う。

ひまわりの子供時代(福田麻由子)が登場して、この場面はCGを使用しているが、ここでコメディの味は出てるし、やはりもっとリアル感が欲しいところだ。


観ていてすごくいらいらする。

相手に思いっきり蹴りを入れたり殴ったりというシーンは、結局のところ「ひまわりの頭の中だけ」というのがもう見えたし、だから次回の予告で「女王の教室」を髣髴とさせる「いいかげん目覚めなさぁい?」を言わせているが、これも想像しただけのものだろう。こういう部分は早い話が作り手の自己満足に過ぎない。教室、演歌と来て、このスタッフでもう1作、たぶん3部作でも作る予定なんだと思うがこちらとしては鼻で笑うしかない。


では、もう観ないのか?

いやいや、これが。

観ないわけにはいかないのだ。

好きな役者がたっくさん出てるのだ。

福田麻由子

テレビ朝日の深夜枠でやっていた黒川智花主演の「てるてるあした」にも、今回と似たようなお化け役(主役の照代の母である荻野目慶子、の子供時代という設定)で出ていた。この子は好きなのだ。日テレの、拉致被害者の横田めぐみさんをモデルにしたスペシャルドラマではめぐみさんの子供時代を演じ、「女王の教室」では主役の和美(志田未来)の同級生役をやり、フジの実写版「ちびまるこ」ではまるこ(森迫永依)の姉役で出ていた。実際、この子はすごくたくさん出演しているのだ。


西山繭子

日テレの「瑠璃の島」に出ていて、この女優は誰?と思っていた。よく知らないが、こういう連ドラに出てるなら他にも出てくるかなと期待していたがちっとも顔を見なくてちょっと寂しかった。そうしたらこの間、TBSの夕方の番組「夢の扉」にナビゲーターとして出ており、「おっ!仕事してる!」と彼女を発見して嬉しくなったのだ。「瑠璃の島」スペシャルでもちゃんと顔を見れたし、と思っていたら今回の作品だ。


成海璃子

ご存知「瑠璃の島」の瑠璃ちゃんだ。今回は初回に出てなくて「んん?」と心配していたらばなんと援交少女として登場した。どうも、ひまわりと一緒に住むことになりそうで、今後はしっかり出番が増えそうではないか。


いらいらしながら、すごく落ち着かなげに、今後も観なけりゃならんようで。

どうやら視聴率的には失敗したご様子で、僕自身も手放しで評価してはいないのだが、役者がいいので今後も観る。


写真など載せてみる。演技がしっかりしているので注目しているだけで、僕は特にロリコンではない。「まるこ」と喧嘩した時の演技にはぼろ泣きさせられたぞ。


福田麻由子

再び前回の続き 。これで完結です。


それでは、やたらめったらと「~なのです。それで~」の意味で「なので」を使われた場合の弊害を考えてみる。

その為には、「~なのです」を検討する必要があるだろう。


例を挙げる。


「僕は父親です」「僕は父親なのです


「地球の温暖化は問題です」「地球の温暖化は問題なのです


「そのまんま東が当選確実です」「そのまんま東は当選確実なのです


いかが?

前者は単にその状態を言っているだけのシンプルな表現。

しかし後者は、明らかに恣意的な意味を含んでいる。

父親なのですと言われれば、父親としての自覚から出てきた決意の表れと受け取れる。

温暖化は問題なのですと聞けば、この問題に真剣に取り組んだ結果、大変に憂慮しているという心情が滲み出てくる。当選確実なのですでは、やるべき事を懸命にやった結果として勝ち取ったという勝利の雄たけびに聞こえる。


アナウンサーが「次は明日のお天気です」と言ったら単なる番組内のプログラムを報せただけの言葉だが、「~お天気なのです」と言ったらどうだろう?

「えっ?本当はお天気情報じゃない予定だったの?」

「えっ?なんか凄い天気なのかな?お知らせするのが怖いような言い方じゃないか?」

と勘ぐってしまう。


このように、意味もなく恣意的な匂いを撒き散らしながら語るのが「なので」だ。いったいどこが「なの」なのかの説明は当然ない。わかって使ってないし。これを連発すると、正直言って論点があやふやになったり散文調になったり、聞いている方は今ひとつぴんと来ない可能性が生まれる。


こういう話し方をする人、或いは「なんか便利かも」なんて思って連発する人には共通点がありそうだ。

それは、適当にごまかしたい場合。

それは、的確な言葉が見つからない場合。

それは、考えている事をうまく表現できない場合。


最初にこれを聞いたとき、何割かの人は「なんかよくわからないけど、便利な言葉っぽい」と感じたのではないだろうか?その「なんかよくわからない」のが何故なのかを考えようともせずに、無条件に拝借した可能性は否定できない。僕は「なんか気持ち悪い」から今まで使った事はないし、使っている人に流されないよう意識してきた。そして、自分なりに検討してみてやはり使うべきではないと思う。言葉は時代とともに変化するもの。それもわかっているつもりだ。が、元の言葉はなにで、どういった経緯でそう変化したのか、ある程度納得した上で変化を受け入れないとおかしなことになる。今使っている言葉だって、もう出自や何かがわからなくなっているものは多数ある。少なくとも自分が意識できる範囲においては、言葉は大事に使いたい。言葉はコミュニケーションにおける大事な道具で、ひと言で全てがおじゃんになっちまうケースだってあるのだから。


副題は「チョーメッチャムカツク」なのだが、これはたいして考えずにつけちまった。

ただ、ややしつこく検証してみた結果、「チョーメッチャムカツク」の方がよっぽどかわいく思える。これは形容詞を重ねて使っただけの、「超大型新人」と全く変わらない言い方。ボキャブラリーの少ない人はむやみに連発するきらいがあるが、むしろ仕方ないことかもしれない。もう少し新聞とか読んだら語彙も増えるんだろうけど、僕も若い頃は五十歩百歩だったかもしれないし、年齢とともに言葉だって覚えるはず。


それにしても、今回取り上げた「じゃないですか。なので」に関しては、どうしたって気になるし、できれば使って欲しくない言葉だ。

前回の続き で、今日は「なので」を取り上げます。


言っときますが、僕が勝手に解釈してるだけなのでそこんとこよろしく。言い方が古い。


ここで扱う「なので」は接続詞として使われている模様。

何らかの文章がまずあって、それがひとまず終わったあとに「なので、」と来て次の文章。完全に接続詞だ。意味としては、結局のところ『~なのです。それで~』にあたるだろう。それにしても、やっぱりこの言葉も「じゃないですか」同様聞いてる人の鼻腔や口の端をむずむずとツツクのだ。


「なので」という言葉は、実はちゃんと日本語にある。例を挙げてみる。


「第一印象があまりにも衝撃的だったのでよく覚えている」

「玉砕覚悟で声をかけてみたいのでおまえ協力してくれ!」

「おまえは口下手なのでお酒の力でも借りたらどうだ?」

「しまった。未成年なのでお酒は飲めないのだった」


ご承知のように、形容詞や動詞のあとに続く場合は「ので」に変化し、名詞のあとに続く場合はそのまま「なので」が使われる。これは明らかに語尾として使われている。これが通常の、ごく当たり前の「なので」の使われ方。

上記の例を見た場合、「ので」の言い換えは「それで」または「だから」になり、「なので」の言い換えは「だから」となる。つまり、前に来る言葉が名詞なのか形容詞なのか動詞なのかによって、うしろの文脈は左右されるわけだ。私たちはこれを日常無意識に使っており、このように改めて考えてみる以外には「ので」だとか「なので」だとかを考えてもいなかったはずだ。だって語尾に過ぎないのだしね。


が、しかし、今回の「なので」は接続詞として使われている。文頭に来ているのだから前の言葉の影響を受けず、うしろに続く文脈は何でもいいことになる。だが、基本的な意味としては「~なのです。それで~」でほぼ決まっており、だから意味が通じないわけではない。非常に厄介だ。


整理する。

本来の「なので」は語尾として使われるもので、名詞・形容詞・動詞のどれに続くかで変化をするもの。変化をした場合にはそれに合致する文脈にならないとおかしい。普通はそうなっているから誰だって違和感は覚えない。だが問題の、接続詞として使われている「なので」は「~なのです。それで~」の省略型として使用されている。従って使われ方の違う「なので」だから妙な引っ掛かりを感じるのだ。


長くなりました。

次回に譲ります。

去年の暮れあたりにコンビニの兄ちゃんと話してた事が何やら話題になっております。

それが何かといいますと。


「コンビニのおでん」は不衛生のような気がして買う気も食う気もしない、というもの。


俺 おでんってうまいの?


兄ちゃん あ~・・・どうですかねぇ。でも結構売れますよ?

最初に「どうですかねぇ」ととぼけるあたりが正直。


俺 売れてようが俺は食う気しないなぁ。


兄ちゃん ・・・そうですかぁ?


俺 だってさぁ、蓋がしてないからなんか異物が入るっていうか、実際このオープン状態でホッタラカシでしょ?


兄ちゃん ・・・まぁそう言われればそうですねぇ。

「きちんと定期的にスープを替えたり、異物が入ったりしていないかチェックしたりしてます」という類の反論は全くなし。


俺 だいたい、君は食べた事あるの?


兄ちゃん あぁ~ないですね。


やっぱりだ。


以前から思っていました。レジの前に置いてあるあのおでん鍋には、会計の際の会話でが飛ぶという事は充分に考えられます。僕はおおむね深夜の時間帯に行く事が多いコンビニですが、その時間帯というのは水商売のおねーさん方も頻繁に見かけます。お水といえば香水。僕はこの理不尽な香水の匂いというのがとりわけ大嫌いで、そのような女性に出くわした時にはさっと引きます。本人はよかれと思ってつけてるんでしょうから、喧嘩したくないから近寄らないわけです。だって「もろイやぁな顔」を自分がしてそうだし。実際してるし。しかしおでん鍋はそこから動けませんよね?また、鍋の脇を多くの人が通り抜けており、中にはタカタカ走っている人だって少なくなく、そうするとやっぱりほこりが舞い散っておることは容易に想像できます。更に、コンビニの広さというのは各社そんなに違いはなく、扉を開ければ外からおでん鍋までの距離は5メートル程度。店によってはもっと近いでしょう。コンビニは道路沿いの立地が珍しくありませんが、車の排気ガスだって漂ってるのではないかと考えます。


前に、その深夜の時間帯に肉まんを買った所、もうしょわしょわというかカピカピというか、できたての逆の状態にあって、もさもさしてちっともうまくなかったのです。食品は消費期限などうるさくやってるようだけども、必ずしも「適切でない適用をされている」ケースは悲惨なのです。

いっちゃん最初は「なんか味が濃いのでは?」と見て買わなかったのだけども、そのうち衛生面に気づいて、いったんそうなるとすごく気になりだし、絶対に買うべきではないと考えたわけです。


am-pmではおでんをおいてないそうです。蓋をするしないで論争があるようですが、蓋をしないのは「匂いで客を釣るため」だと僕は考えています。

そのあたりの詳しい内容はこちらをご覧下さい

そのうち削除されるおそれがあるんで見るならお早めに。


僕は飲食店を営む者で、食品の衛生に関しては当事者となります。だから大きな事はあまり言えないんですがね?例えば、うちは食品を直接手で扱っています(手袋をしたりはしていない)ので、そういう点を指摘されたら弱いといえば弱い。もちろん最大限の配慮のうえ扱ってはおりますが。


皆さんどう思いますか?

タレントの若槻千夏がブログ を始めております。

めちゃおもしろい!

間違いなく書籍化されますね。

で、眞鍋かをりを超えるかも?

で、本人は作家きどりでせう。


入院して巷を騒がせて、妙に長引いて心配をかけて。

で、退院したら全開ばりばりって感じです。


なにしろ、この子、ボキャブラリーは無いくせに出てくる言葉がすべからくシュールです。ない頭を振って振って振り絞って、出した答えがネタです。これはもう殆んど天才の域だと思います。テレビタレント、中でもバラエティそのものです。

若槻千夏は歩くバラエティですよ。


昔、プロ野球の審判が「私がルールブックだ」と名言を残したとか残さなかったみたいな記憶がありますが、彼女の場合、「アタシがバラエティなんだよ」と宣言しても誰も文句は言わないと思います。実際には自分では言わないでしょうけどね。


「そんな事言ったら『いい気になんな!』って干されますから」とかのたまいそうです。


ブログ本が出版されたら「印税は何に使いますか?」って記者会見で質問されて、「ディープインパクトの子供を買う!」とか言いそうです。もちろん、その前に「ディープの墓を作る」と言って、「まだ死んでねえよ」と突っ込まれて、そのあとの答えです。


とにかくおもしろいので、一度覗いてみるべきですよ。



若槻



19年ぶり発見の娘…半分野生化 カンボジア

【バンコク=岩田智雄】カンボジア北東部のラタナキリ州で19年前に行方不明になっていた少女が18日までに無事に保護された。少女は現在27歳。言葉はほとんど話せず、与えられた衣服を脱いでしまうなど半分野生化した様子だという。  AP通信によると、この女性はロチョム・プニンさん。1988年、8歳のときに家畜の水牛の群れを追ったまま行方不明になった。同州の村で最近、弁当箱から食べ物がなくなる被害が相次ぎ、村人が付近で張り込んでいたところ、米を盗もうとした女性を発見。父親が腕に残った傷跡で、行方不明となった娘と確認した。 父親は娘の様子を「かがんで歩く姿勢がサルのように変わっており、骨と皮しかない。目はトラのように赤い」と話している。

1月19日8時0分配信 産経新聞


こういう話は映画や小説の中に時折り使われますが、現実だと思うとつらいものがありますね。世界中を見渡すと、意外と珍しくはないのかもしれません。


密林?で迷子になった当初はほとんど絶望にかられた事でしょう。しかし、この子は生きた。ある時からスイッチが切り替わり、何が何でも生きる道をひた走ったわけです。その強い気持ちは残念ながら、「両親の元に絶対に帰る」ではなく、人間という動物として「死なずに生きる」というものだった。帰る思いはもちろんあったでしょうが、次第に「生き残るというサバイバル」に支配されていき、人間から動物へのシフトが進んでいったと想像できます。8歳なら小学2~3年生の歳で、子供ではあっても言葉は日常的に使っていたはずで、それをすっかり忘れてしまっているのだからいったいどんな目に遭って来たのか考えると切ないですね。たぶん数え切れないくらい遭遇したであろう「死ぬとこだった」危機を潜り抜けて生き抜いたのですから。

いやぁ切ない。成長期に四足動物同様の状態で(たぶん)いた為に姿勢もサルみたいになってるそうです。

1日も早く保護して、精神的な安定を取り戻してきちん教育をし直して、「人間の娘」に戻してあげて欲しいところです。


19年かぁ。


昔々あるところで付き合っていた女性には娘が二人(3歳と5歳)おりましたでな。母子家庭につき父親みたいにしておったんじゃ。半年あまりはほれ、ようまぁ楽しく過ごしておったんじゃよ?

それがな?

まぁ色々ありまして・・・とにかく色々ありまして、しまいにゃ別れてしまいおった。

はぁ。残念なこって。

二人の娘たちには、妙な影響が出てもいかんもんで、もちろん二度と会えませなんだ。いやいや、な~んも血ぃつながってるわけでもなし、ただただ可愛がっておったっちゅうだけですがの?


それが。

それから3年ほど経った或る日、その別れた女性と二人の娘に道でばぁったり会いましたわいな。で、下の娘の方が開口一番

「このおじちゃんだぁれぇ?」

だそうな。


お・・・おぼえてない。


つらいのぉ。あんなに一緒に遊んでお風呂だって楽しく入ったぢゃないか。ん?

でもまぁ・・・そりゃそうだ。それがいい。それが一番いい。忘れてしまってくれてる方がいいのだと、ぐすんと鼻水すすりましたがの。

それでも、上の娘ははじける笑顔でにっこりと微笑んでおりましたよ。ひとことも発さず「わかってるよ」と見つめてくれましたわい。

救われました。


3年で忘れちまうのです。


19年という歳月は重いですね。

でも、とにかく親の方はあきらめていたはずですから、生きててよかったですね。

生きてこそです。


「私ってほら、細いってよく言われるんですけどぉ。どっちかっていうと着やせするタイプじゃないですかなので・・・」


このようなコメントに出くわすと背中のあたりが妙にもぞもぞと痒くなり、いらいらする。

近頃よく聞く言い回しで、メディアにもかなり露出しているこの「じゃないですか」と「なので」だ。僕は国語学者ではないから責任は一切とらないが、僕なりの解釈を試みる。


「じゃないですか」

別にそう問われたところで本当にそうなのかどうかをこちらは知らない。そのような状態であったのを目撃したとか聞き知ったという事もない。しかし、彼女は「じゃないですか」と問うのだ。クエスチョンマークを付けなかったのは、文脈の中において、この言い回しは事実上質問ではないからだ。「じゃないですか」と言いながら、発言者は答えを求めていない。問いでないのに問いの形を使っている矛盾したもの。

そこにはこのような心理が働いていると考える。

「そうなのかどうかをあなたは知らないでしょうけど、私がそう言ってるからにはそうなのよ。私の言葉をもしやあなたは疑ったりしないでしょうね?それならおとなしく私の言葉を肯定しなさい。」という暗黙の半強制的な物言いなのだ。自分の状態を既成事実として語る事で、主導権を相手に渡す事なく会話を有利に進める効果がある。かなり傲慢な言い方なのだ。


本来は、「~じゃないですか」という部分には「~って言われた事がある」「~って自分で思う」というような言葉が来る。

すると、

(前者)「え~?誰にそんな事言われたの?」

(後者)「本当?あんたんとこの鏡壊れてない?」

のような、それを必ずしも肯定できない或いは疑惑を抱かせる余地が生じる。つまり攻撃の糸口を与える事になる。そういうやりとりをするのが会話というものなのだが、この言い回しはそれを拒絶するのだ。

「(あんたは残念ながら知らないでしょうけど)みんな知ってる、誰からもそう言われる周知の事実なのよ」というニュアンスを含んでいる。「間違ってもそこに突っ込みを入れるなよ」という睨みにほかならない。

これは自分を守る心理。そこにもどこにも存在しないのに、この言い回しひとつで背後にサポーターの存在をほのめかす自己防衛本能から生まれている。


友人同士の会話だとか対等な関係なら、「~じゃない?」と軽い問いかけになるのが普通で、きちんと疑問形になっていれば切り返すことも可能。「んなことないわよ」


だが、「じゃないですか」は比較的距離のある相手や目上との会話で使われる。そういう相手に対して目に見えない、じわりと無言の圧力をかけるような物言いをするこの言葉。

僕は嫌いだ。

第一、 相手に対して失礼極まりないと思う。

それは、相手がどう思おうが一切お構いナシに、「そうなのだ。だからそういう事で進めさしてもらうから」という傲慢さが滲み出ているからだ。会話の楽しさはキャッチボールから生まれるのに、はなから自分だけ一段高いところから言葉を投げ下ろしているのだ。


次回は(後編)で「なので」を取り上げる。


吉岡忍氏が「自分以外はバカの時代 」という文章を書いている。




速水 敏彦
他人を見下す若者たち

今年の注目株 1 北乃きい

「14才の母」で主役を演じた志田未来の親友は何という名前なのかちょっと気になっていた。随分と嫌な役ではあったがぱっと見で存在感があった。そこらへんの子とは違う。


北乃きい と言うらしい。

ウイキペディアを探してみた。


あぁ、2005年のミスマガジンだそうで。

これは、またまた出てきた注目女優のようだ。


で、今度、瀬尾まいこさんの「幸福な食卓」が映画化されてその主演をやるそうだ。

あぁなるほどと感じ入った。

瀬尾まいこの世界なら合ってると思う。


前にNHKで「七子と七生(ななことななお)」という作品がドラマ化されており、これには蒼井優が主演していた。僕は原作を読んでいないのだが、少女と大人の端境期あたりで微妙に揺れ動く心理を演じる蒼井優はとてもよかった。

このような一見目立たず、しかし「どうしてどうして、芯の強さはあるじゃない?」というような、しなやかな強さを内に秘めた女性として蒼井優はよい。これがたとえば沢尻エリカではうまくないと思う。そこにいるだけで目立ってしまうから。もちろん年齢の設定あたりもあるだろうが、志田未来でもちょっとと思う。

そこへ行くと、その「幸福な食卓」で主役を演じるのが北乃きいならイメージにぴったりだろう。もちろんその作品の粗筋は知らないが、同じ作者だから同じ風が吹いているかなと勝手に思っての事。


女優というのは色んな役を演じるわけだから、この役でないといけない事はナイし、本人はまた違うかもしれない。それでも、やはり持っているキャラクターというかイメージというのはつきまとうもの。

蒼井優と北乃きいは傾向としてとてもよく似ていると思うのだ。この二人、年齢はそれぞれ現在21歳と15歳。姉妹役をやって欲しい。


北乃きいはネスレのキットカットCMに新しく起用されていて、業界でも「買っている」という事が伺える。ちなみにこのCMの先輩達は宮沢りえ、一色紗英、菅野美穂、鈴木杏など躍進した人が多い。


ブログもお持ちで

そこから写真を拝借。かわいい。



北乃きい

彼女の音楽を最初に聴いたのはたぶん10年以上前。

きっかけはCDショップに置いてあった情報誌で、近日リリースされる楽曲の広告やその作品にかけるアーティストの意気込みなんかが載っているもの。販促目的で店側がおいているからもちろん無料。それをぱらぱらと眺めていて、読めない名前にぶつかった。いや、最初は名前と思えなくって、「む?これはなんだ?」と目に留まった。


「区麗情」


なにかの当て字か何かか?といぶかしんだ。とっさに頭をよぎったのは暴走族が使う「夜露死苦」とかの類だった。よくよく読むと、それは「ク レイジョウ」と読むそうで、なんでも中国系のクォーター(両親のどちらかがハーフ)だとか。

ふ~ん。

紹介されていたのは「晴れた日、雨の夜」という彼女の二枚目のアルバムだったのだが、編集者との対談形式で本人のコメントが掲載されていた。聴いた事がない人だし、言葉だけではどんなものかはわからない。僕の目を釘付けにしたのは対談の内容よりもそのページの柱として付けられていた惹句だ。


「至福の歌声を持つ昭和最後の歌姫」


実は『至福の歌声』以外はうろ覚えなんだが。うしろの修飾語は単なるシンガーだったかもしれない。

この、『至福の歌声』に僕は心躍らされてしまった。


いったいどんな歌声なんだ?

ルックスに関して言えば、クォーターというミステリアスな響きと、加えてしなやかかつ柔らかな印象。しかし芯は強そうだと感じた。とにもかくにも聴いてみたかった。

早速その「晴れた日、雨の夜」を入手。


実際に聴いてみると、こういう場合「あぁ、そうなのね・・・確かにいい声ではあるが」

で終わるケースが殆んどだと思う。しかし、僕はこの『至福の歌声』という形容はどんぴしゃだと感じた。

キンキンと甲高い声ではなく、割合と細めに伸びるハイトーン。伸び方に奥ゆかしさが漂う。どこか聞き覚えのありそうな、懐かしさと親近感が嬉しい。太くはないがちっとも頼りなさはない。肝心な部分はきっちり細い糸のようなビブラートが美しくかかり、そのしなやかさは毛並みのよい鹿や、或いは流線型のフェラーリを思わせた。車に例えるのも変だが、ほんのりと丸みを感じるのだ。聴けば聴くほどもっと聴いていたくなるその声に、僕はすっかり魅了されてしまった。至福の時だ。


歌詞に関しては、提供されているものもあるが彼女自身によるものが多い。まぁ女性の気持ちというものを率直に吐露した等身大の歌詞なのだと思う。それについてはそれほど気にはならなかった。やっぱり彼女の魅力は声だと、僕はそう思う。

「晴れた日、雨の夜」以来、僕は彼女の新譜が出るたびにそのCDを購入し、『至福の声』に酔った。


区麗情の名前 を口にしても、実際誰も彼女の名前を知らない。もちろん、一定のファンは全国にいるのだけどブレイクする気配はなかった。大々的に売れる様子は。

名前が売れてしまうと、どこか磨り減ってしまうような気持ちになってしまう。事実、スケジュールが過密化して創作活動にじっくりと時間を割けない事態は困る。身体を壊してノドを痛めてもらっても困る。だから「あまり売れて欲しくはない」と思っていた。彼女のペースで仕事が出来る程度に売れてくれればいいと考えていた。


しかし、確か現在、彼女はレコード会社との契約が切れているはずだ。僕の考えていたよりも少なくしか売れなかった為だと思う。残念な事ではある。彼女の新譜が聴けないのは惜しいが、少なくとも今の段階では、僕はそれまでの彼女の為した仕事に一応の満足を得ている。これまでに手に入れた楽曲は決してなくならないから、それを一人でこっそりと楽しんでいる。


彼女の価値を僕は評価しているし、ひとまずはそれで充分だ。


区麗情
晴れた日、雨の夜
区麗情, 嘉藤英幸, 上野浩司, 浜田省吾
Country Girl