「私ってほら、細いってよく言われるんですけどぉ。どっちかっていうと着やせするタイプじゃないですか。なので・・・」
このようなコメントに出くわすと背中のあたりが妙にもぞもぞと痒くなり、いらいらする。
近頃よく聞く言い回しで、メディアにもかなり露出しているこの「じゃないですか」と「なので」だ。僕は国語学者ではないから責任は一切とらないが、僕なりの解釈を試みる。
「じゃないですか」
別にそう問われたところで本当にそうなのかどうかをこちらは知らない。そのような状態であったのを目撃したとか聞き知ったという事もない。しかし、彼女は「じゃないですか」と問うのだ。クエスチョンマークを付けなかったのは、文脈の中において、この言い回しは事実上質問ではないからだ。「じゃないですか」と言いながら、発言者は答えを求めていない。問いでないのに問いの形を使っている矛盾したもの。
そこにはこのような心理が働いていると考える。
「そうなのかどうかをあなたは知らないでしょうけど、私がそう言ってるからにはそうなのよ。私の言葉をもしやあなたは疑ったりしないでしょうね?それならおとなしく私の言葉を肯定しなさい。」という暗黙の半強制的な物言いなのだ。自分の状態を既成事実として語る事で、主導権を相手に渡す事なく会話を有利に進める効果がある。かなり傲慢な言い方なのだ。
本来は、「~じゃないですか」という部分には「~って言われた事がある」や「~って自分で思う」というような言葉が来る。
すると、
(前者)「え~?誰にそんな事言われたの?」
(後者)「本当?あんたんとこの鏡壊れてない?」
のような、それを必ずしも肯定できない或いは疑惑を抱かせる余地が生じる。つまり攻撃の糸口を与える事になる。そういうやりとりをするのが会話というものなのだが、この言い回しはそれを拒絶するのだ。
「(あんたは残念ながら知らないでしょうけど)みんな知ってる、誰からもそう言われる周知の事実なのよ」というニュアンスを含んでいる。「間違ってもそこに突っ込みを入れるなよ」という睨みにほかならない。
これは自分を守る心理。そこにもどこにも存在しないのに、この言い回しひとつで背後にサポーターの存在をほのめかす自己防衛本能から生まれている。
友人同士の会話だとか対等な関係なら、「~じゃない?」と軽い問いかけになるのが普通で、きちんと疑問形になっていれば切り返すことも可能。「んなことないわよ」
だが、「じゃないですか」は比較的距離のある相手や目上との会話で使われる。そういう相手に対して目に見えない、じわりと無言の圧力をかけるような物言いをするこの言葉。
僕は嫌いだ。
第一、 相手に対して失礼極まりないと思う。
それは、相手がどう思おうが一切お構いナシに、「そうなのだ。だからそういう事で進めさしてもらうから」という傲慢さが滲み出ているからだ。会話の楽しさはキャッチボールから生まれるのに、はなから自分だけ一段高いところから言葉を投げ下ろしているのだ。
次回は(後編)で「なので」を取り上げる。
吉岡忍氏が「自分以外はバカの時代
」という文章を書いている。
- 速水 敏彦
- 他人を見下す若者たち