知的財産と言うと何をイメージするだろうか?。
企業が持つ特許?、或は海外でビジネス展開するグローバル企業の持つ
他社が真似の出来ないような技術?。それさえ持っていれば企業の生存が
約束されるような価値のあるもの?。
いずれにせよ、私達とは縁遠い物と思っている方が多いのではないだろうか?。
しかし、私が思うに「知的財産」とは、人それぞれ仕入れる情報の量により
そのレベルに差こそあれ、我々みんなが頭の中に本来持っている物であり
それを具現化した物が我々の身の回りにある「商品」であり、「サービス」
であったりするのではないだろうか。
そうは言っても、多くの人々は「自分の知ってる事は大した事はないし、
誰でも知っている事だから、財産とは呼べないだろう」と思っているかも
知れない。
だが考えて見て欲しい。
例えばあなたが大工さんだったとする。
釘ひとつ取って見ても「丸釘」「コンクリート釘」「ステンレス釘」「トタン釘」
「ボード釘」「パネル釘」etc、、。その材料や用途に応じて限りない数の釘が
存在する。
最近では、DIY(Do It Yourself)と言う、専門業者に任せず自らの手で家庭
に必要な家具や棚、物置、犬小屋、果ては自宅まで建ててしまおうと言う強者
も現れるほどその市場は広がって来ている。
その方たちに取って見ると、大工であるあなたの「知識」はまさしく喉から
手が出るほど欲しいものであり、自分勝手に作って使えない物を作るよりは
例えお金を払ってあなたから知識を買ってでも、自分自信で「良い物、納得
のいく物」を作りたいと思っているのだ。つまり、単に自分で創ると安上が
りだから、という程度の動機で創っているのではないと言う事だ。
そう考えて見ると、あなたの持っている釘の知識一つ、どの部分にはどの
木材を使った方が良いと言う知識(情報)は、一つの「財産」と言ってもいい
のでは?。
イヤ、むしろ「その情報」を販売する事によって、そこからお金が生み出さ
れる可能性がある事を鑑みると「資産」と言っても言い過ぎではないだろう。
このように見て見ると、私達一人一人には、目に見えない「知的財産(資産)」
と言う物が存在する事が分かる。
世の中には、自分自身の「知的財産(資産)」に気が付いている人とそうで
ない人がいる。
そして、気が付いた人の中にも、それをどうやって具現化し、お金に変えて
いけばいいの?と言う事を知っている人と知らない人がいる。
その違いは何か?。
以前、ブログの中に「福沢諭吉」について書いた事がある。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と言う一文がある。
私達は、学校でこの部分のみを強烈に聞かされて育った。
「人間は天の下にみな平等だ」と言う考え方の部分だ。
「人間は天の下にみな平等だ」と言う考え方の部分だ。
しかし、これには
「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり
貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違
あるに似たるは何ぞや~(割愛)」と言う下の句がある。
下の句で言っているのは、「そうは言っても世の中を見渡すと賢い人が
いて、愚かな人がいる。貧しい人がいて金持がいる。貴人もいて卑しい
人もいる。その有様は雲と坭のようである。一体その差は何故起こるのか?。
それは学ぶか学ばないかによるものである」と述べているのだ。
それは学ぶか学ばないかによるものである」と述べているのだ。
つまり、私達は第一段階として、日々知識を仕入れる事により、「知的財産
(資産)」が蓄えられていく。しかし、この段階で終われば単なる「宝の持ち
腐れ」にしかならない。
次に第二段階として、蓄えた「知的財産(資産)」をいかにして目に見える
形の現実の財産へと変換して行くのかと言う事を学ぶ必要がある。
福沢諭吉の生きた150年前には、この事を知る者は限られた大きな資本を
持った一握りの人のみであったに違いない。
しかし、今の時代は恵まれている。
その気になれば、このような情報に誰でもアクセス出来る時代を迎えたからだ。
ところが、余りに恵まれた環境のため、今度は別の問題が生じてきている。
その事に関しては、また次の機会にお話しする事にする。
今回は、みなさんは「知的財産(資産)」を持った存在であると言う事に
気が付いて頂ければ幸いである。