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Redの未来は自分で創る

あなたは自分が変われると思ってますか?。時間が未来から現在に向かって流れている、この事を知ればあなたは変われる。

先日、子供の授業参観とPTA総会があった。


授業参観では、子供達が親の前で一生懸命頑張る姿を頼もしく見ていた。


前回の授業参観の時には、父兄のおしゃべりが目立ち少々授業の邪魔を

している感もあったが、今回は父兄も「大人しく」静かに見ていたため、先生も

スムーズな進行が出来たようだ。


授業後、各児童の席に座り父兄懇談会のような物が実施された。


椅子がかなり小さく「こんなところに座ってたっけ?」と自分の成長を知る事に。


その中で、先生より「父兄の方の自己紹介とご自身のお子さんの良い点を

発表してもらえますか」と言う前振りがあった。


「○○の母です。○○は進んで家の手伝いをしてくれます」。


「○○の母です。弟や妹の面倒をよく見てくれます」。


などの話しがあったあとある親御さんから

「良い点はありません、落ち着きがなくて困っています」と言う話しが。


その後も「言う事を聞かなくてこまってます」とかマイナスの面ばかりを言う

親御さんがいらっしゃり、先生も少々困惑気味な感じだった。


その口調からして「謙遜」して言っているのではなく、本心から出た言葉

なのだと感じた。


この親たちは一体子供の何を見ているのだろう?。


子供の良い点の一つも言えない親に対し、果たして子供が心を開いてくれるで

あろうか?。そんな親の言う事を聞いてくれるだろうか。


恐らく家でも「上から目線で」あれをしなさい、これはやっちゃだめと指示を出し

その通りに出来ていない事に対して不満を持ち愚痴るのだろう。


この手の親御さんの場合、自分自身も子供の頃に同様な教育を受けた可能性

が大である。そう言う方は知らず知らずのうちに親の真似をしてしまう。


血統、血筋と言うのは無意識に続く教育環境の連鎖でもあるのだ。


よく「親の背中を見て子は育つ」と言うのがその事をよく物語っている。


こういう場合、よっぽど親が意識しなければこの連鎖を断ち切る事は難しい。


だが立ち止まってよくよく考えて見て欲しい。


「親」と言うものは子供によって親にならせてもらっているのである。


しかし、ただ単に子供が出来たからと言って本当の意味での「親」になる訳

ではない。子供を通して「親」になっていくのだ。


つまり「親」にも成長のレベルがあると言う事だ。

※「親検定」何級と言うのがある訳ではないが、、、


子供への対応や子供の言動を理解する上で親もレベルアップしていかなければ

親として子供を教育して行く事は出来ない。


子供は親が尊敬できる存在でなくなった時、或は親から関心を持たれず、

認められなくなった時、親の話しを聞かなくなり、親以外の友達や学校の先生

或はやんちゃな仲間にその答えを求めようとするだろう。




人は認められたい存在である。承認欲が服を着て歩いているようなもんだ。


これは特に子供において顕著に表れる。


そんな中で、先程の「うちの子供にはいいところがない」と言っていた親の場合は、

子供の成長のための教育(人としての教育)を放棄しているに等しい。


教育評論家とよばれる人達やベストファーザーと呼ばれた人達の子供が

大きくなり「うちの親は家族の事を顧みず家庭はバラバラだった」と言う風に

暴露する話しを耳にする事がある。


家庭で親として認められる事は、社会に対して認められる事よりはるかに

難しい事なのだ。いつも身近にいる身内の目は妥協を許さない、厳しいのだ。


だからこそ逆に言えば、本当に自分の子供に尊敬され慕われる親と言うものは、

社会においても尊敬され認められる可能性が高いと言える。


つまり親と言うものは、家庭内で子供を通して「親」としての成長をさせてもらえる

と同時に社会でも一人の人間として認められるような成長をさせてもらっているのである。


手前味噌になるが、うちの子供は本当にスゴイ。


何がスゴイかと言うと、以前、とある約束を破った事で叱った事があった。

叱られている間は下を向きこちらの言う事に対してイチイチ「はい」、「わかりました」

と答えていた。


ひとしきり説教が終わってトイレに入るやいなや「鼻歌」を歌い始めたではないか。

私ならあれだけ叱られたら暫く「へこむ」だろう。


しかし、彼は「鼻歌」をうたって何事もなかったかのように部屋へ戻って行った。


人によっては「全く反省してない!」と更に怒る者もいるだろう。


しかしそれは捉え方が違うと思う。


私の場合は、「何て気持ちの切り替えの早い子だ。こいつ気持ちを切り替える天才

じゃないか」と驚いて笑ってしまった。


叱られて反省するのはその場で済ます。後に引きずらない。


素晴らしいではないか。


もし、あなたにまだ子供がいないのであれば、兄弟でも構わない。


兄弟を承認し兄弟にリスペクトされる存在になればあなたは社会生活に

おいても感覚的にその立場を持ちやすくなるだろう。


あなたが将来、人に物を教える立場や会社の上司、あるいは「メンター」と呼ばれる

立場になりたいと思った時、この「訓練」がきっと役に立つ事は間違いないだろう。


この事に気が付けば「子育て」は自分にとっての一番シビアな教育の場であり

「手抜きできねーな」と言う結論に達するはずだ。


そんな素晴らしい場を「仕事が、、、」「残業が、、、」で放棄するのは余りにも

勿体なくはないですか?。

慶応

これがどこだか分かりますか?。



ヒント!



ボクシングでいつも勝っている大学。




そう、正解は「慶應(KO)大学」。




え、サブイ?。






慶応義塾大学の創始者として有名なのが「福沢諭吉」先生。



1858年に開校した「蘭学塾」が起源と言われ、大学自体は1920年設立。



もうすぐ100周年を迎える。




では、福沢諭吉と言えば?




そう、「学問のすゝめ」。




日本人でこの本を知らないと言う人はまずいないだろう。




そして「学問のすゝめ」で誰もが知っている一文と言うのが





「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」





ではないだろうか。




つまり、「人は生まれながらにして皆平等だよ」と言う事を言っている訳だ。




では、この続きは?と聞かれると、殆どの人が?と首を傾げるのではないだろうか。




実は、この句には続きがあり、それが正しく福沢諭吉が言いたかった事では


ないかと思われる。




その続きが




「されども今廣く此人間世界を見渡すに かしこき人あり おろかなる人あり


 貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに


 似たるはなんぞや・・・・続く・・・」



と言うものだ。




まあ、大体の意味は分かると思うが、前後の文をつなぎ合わせて今風に言い換えると




「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言われている。人は生まれながらに


 して貴賤上下の差別はない。けれども今ひろくこの人間世界を見渡してみると、賢い人、


 愚かな人、貧しい人、お金を持つ人、身分の高い人、身分の低い人といてそれは様々である。


 その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに


 由って出来るものなのだ。人は生まれながらにして貴賤上下の別は無いが、学問を勤めて


 物事を良く知る物は貴人となり富人となり、無学なる物は貧人となり下人となるのだ」




と言う感じだろうか。




つまりは、人は学び知識を身に付ける事によって成功(成長)していけると言う事だ。




当時の日本は、武士の時代が終わりを告げ、力を中心とした「肉体労働」型社会から


欧米に通ずる「知識」を持つ者が社会の中枢をなす「知識社会」への移行期を迎えて


いた事が良く分かる一文である。




実は、この「知識労働」が中枢を占める社会と言う物は、明治以降つい最近まで


続いていた(まだ続いているのかも知れない)。




学校教育においても、どれだけの知識を身に付けたかによって優劣がつく時代。




社会においても、良い大学を出てどれだけ多くの知識を持っているのかが問われる


社会。知的労働者いわゆるホワイトカラーが持てはやされる社会だ。




しかし、ここ20年の社会の変化を見ると、その状況が大きく変わりつつある


時代を迎えている事に気付く。




コンピューターの普及及びその性能の急激な発達によって、社会全体が


コンピューターを中心とした社会構造に組み替えられつつあるのだ。




コンピューターと言う単体での存在と言うよりも、インターネットを使った


ネットワーク社会と言った方がいいだろう。




どれだけの知識を持っているかよりも、どれだけ「有益な情報」を扱えるかが


重要視される時代を迎えたのだ。



欧米先進諸国においては、情報の価値と言う物は古くから認識されていた。



しかし、日本においては「国の安全に関わる情報」においてもそれほど大きな

価値を見いだせないでいた。



ところが最近になり日本社会においても国家レベルのみならず、民間の会社レベル

そして個人レベルにおいても情報の重要性、価値と言う物が認識されるように

なり、情報を扱う者への認識も変わりつつある。




遅まきながら「情報労働」時代が幕を明けたと言ってもいいだろう。





人間の記憶出来る情報量はたかが知れている。




情報労働者の役目は、多くの情報を覚える事ではなく、世の中にあまた拡散して


いる情報の中から相手にとって有益な情報をいかに素早く適切な方法で提供できるか


と言う事だ。




故に多くの情報や知識を持っている必要はない、それを見つける能力に長けていれ


ばいいのだ。




当然、情報を扱う者にはその情報を扱うにふさわしい「倫理観」、そして情報の


洪水に飲み込まれないための自分なりの「価値観」を持つ必要がある。




またその情報を俯瞰的に見れる目も必要になって来るだろう。




情報を発信する者は、その情報を扱うに値する自分になる努力を怠っては


ならないと思う。




情報は扱う者によって、いい意味でも悪い意味でも大きな影響を及ぼすからだ。




つまり、情報は人を幸せにも不幸にもする事が出来ると言う事だ。




また、同じ情報を伝えるにあたっても人によって伝え方が様々である。



文字で伝えた方が分かり易い人、音声の方が伝わり易い人、映像で見せた方が


理解し易い人などだ。



その事を理解し最適な情報伝達手段をチョイスするのも情報発信者の役目である。



自分の発する一言が、そのネットの背後にいる多くの人達に対し、どういう


影響を与えるのかを認識した時、どういう言葉をどういう形で発するべきか


自ずと分かって来るだろう。




しっかりとした「倫理観」と「価値観」。




そして、自分の「倫理観」「価値観」に照らし合わせて正しいと思われる情報を


相手に必要な形で伝える事の出来るスキル。



これらが、これからの「情報労働者(IS)」に求められる能力と言う事になるだろうか。



さてさて、こういう教育を行ってくれるところはどこにあるのだろう?。



「あなたは人にお金を貸していますか?」。



または「これまでに人にお金を貸した事がありますか?」。



「NO」と言う方がいれば、こう言い換えて見よう。



「あなたは銀行或は金融機関にお金を預けた事がありますか?」。



この質問であれば、殆どの方が「YES」と答えるのではないだろうか。




銀行にお金を預けると言う事は言い換えれば「銀行にお金を貸す」と言う

事にもなる。



借りたお金に対し銀行は幾ばくかの金利を支払い、そのお金をもっと高利率

のところで運用し利益を得ている。



銀行にお金を貸す場合、金利は雀の涙程度。



年利で 0.03~0.55%。


100万円を1年預けたとしても、数回ATMを時間外で利用すると金利の

低い銀行であれば、利息が全て吹っ飛んでしまうと言うありさまだ。



でも待てよ?、



私達が銀行からお金を借りる時には、十数パーセントの金利を払って

借りてたりしないだろうか?。



この差はいったいなんだ?。




日本政府が発行する10年物国債の変動金利が年率で(0.05+α)%とのこと。



お隣の韓国の国債金利は3%、ブラジルに至っては8.3%と言う途方もない

金利がついているようだ(狙い目か?)。



そもそもこの金利なるものは何を基準に決められているのか?。



一般的に金利と信用度は反比例すると言われている。



信用度が高ければ高い程金利が下がり、信用度が低い程金利が上がると

言うことだ。



他国と比較して「信用度」の高い日本国債は金利が低く、信用度の低い

韓国やブラジルは金利を上げなければ国債がさばけないと言う事か。



と言う事は、信用度の低い我々が金融機関からお金を借りる時には

高い金利が課せられ、信用度の高い企業がお金を借りる時には、きっと

低金利での融資がなされるのだろう。



このようにして、目に見えない信用度と言うものは金融の世界においては、

「金利」と言う形で示されている。



それでは、私達一個人の信用と言うものはどのようにして知る事が

出来るのだろう?。



会社に勤めている場合は、会社と言うバックボーンがあり、勤務年数や

年収などにより個人の信用と言う物がランク付けされている。



会社を辞めた直後など、その信用度が「地に落ちる」と言うのはよく

聞く話しである。



例えば、私達が個人で商売をしていたとする。



リアル店舗での商売でもネット上の商売でも構わない。



お客さんに対し「A」と言う商品を勧めたとする。


その時あなたは一生懸命「A」と言う商品の性能や良さを説明するかも

知れない。


しかし、お客さんはあなたの提案したその「A」と言う商品が欲しい

のではないのだ。



その「A」と言う商品を得る事によって自分の人生に得られるであろう

良い結果に対してお金を払っているのだ。



この事を認識していないと、頓珍漢な商品を進めてしまい、

それこそ「信用」自体を失いかねない。



つまり、商品に固執する事によりお客様の「本当に求めている結果」

と言うものが見えなくなり「商品自体」がお客様との壁となってしまう

と言う事もあり得るわけだ。


特にネットの世界においては、相手が見えない中でその事を文字のみを

通して行っていく必要があるため、よくよく注意が必要である。


しかし、その事を見極めて、お客さんの望む商品を提供できるように

なった時、あなたの「信用度」は格段に高くなるはずだ。


それは、会社や肩書、年収などではなく、正真正銘あなたと言う

ブランドの「信用度」になるのだろう。