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Redの未来は自分で創る

あなたは自分が変われると思ってますか?。時間が未来から現在に向かって流れている、この事を知ればあなたは変われる。


先日テレビを見ていると「310年続く老舗商店」の事が紹介されていた。


その商店は何と310年に渡り「爪楊枝(つまようじ)」のみを販売しているとのこと。


爪楊枝とは日本人なら誰でも知っているあの食後に歯の隙間に挟まった

物を取る爪楊枝の事だ。


その爪楊枝だけを310年に渡って作り続けている商店があると言うのだ。



100均に行けば数百本100円で買えるような道具の爪楊枝を販売して

何故お店を310年も継続していけたのか?。



店の中を見渡すと、あらゆる種類の爪楊枝があり、1本100円近くする物もあった。


それは竹を材料に作られており、高級料亭や高級和菓子店などで重宝されているようだ。


一つの物に秀でていると、いつの時代でもそれを必要とする人がいると言う事だ。



以前は、この爪楊枝店も恐らく大衆を相手にして普通の爪楊枝をメインに

販売していた時期もあっただろう。



しかし、大量生産の安い商品に押され価格競争に持ち込まれようとした時

「高級爪楊枝」路線に舵を切ったのではないだろうか。



その時もし、大衆受けする方向(安売り)に完全に舵を切っていたとしたなら

ば、他の会社との過当競争の中に埋もれてしまい恐らく今もなお伝統を守って

会社を存続させていくということは困難であったであろう。




その後は、いかにして他社との差別化を図るかを念頭に色々な商品開発を

行って来た事は容易に想像がつく。


そうやって幾多の困難を、独自の個性と言う物を見失う事なく、力を

発揮する事によって伝統と言うものを守り9代目に至ったのだろう。



ニッチな産業と言う所は市場はそれほど大きくない。


がしかしディープなファンがいる。


そのファンは「○○の爪楊枝でなければ歯の掃除はしたくない」と思う程の人達な訳だ。


安いだけの製品には見向きもしまい。





商店がそうであれば、私達個人にもそれは当てはまるのではないだろうか?。




私達一人一人にもそれぞれ個性や才能と言うものがあったりする。



「人と会うのが好きで好きでしょうがない人」


「PCの前で黙々と作業をするのが好きな人」


「人前で話すのが好きな人」


「人に自分の知っている事を教えるのが好きな人」



と様々である。



こういう人は好きな事をやっているので、どんなに長い時間それを

仕事としてやっていたとしても余り「疲れ」と言う物を感じない。



それどころかもっとやりたくてしょうがないと言う感じだろう。




中には「私には何の個性も才能も好きな事もないわ」と言う人がいるかも知れない。



しかし、その人の個性、才能と言う物は得てして本人では気が付かないものである。



或はこう言うネットの世界においては、本当の自分をさらけ出して話している

者もいれば、ブランディングされた自分を演じている者をいるだろう。


しかし、折角ブランディングして参加したネット業界であったとしても

もしそれが自分自身の才能や個性と一致していなかったとしたら、努力も

なかなか報われない事もあるかも知れない。



何故なら自分に合わない「人間」を演じているとなかなか結果が出ないと、

「やらねばならない」と言う義務感でやっている分、長続きしないからだ。



私達は何故今の仕事を始めたのだろう?。



儲かるから?。



安定してるから?。



楽して稼げるから?。



もし、それがあなたの「才能・個性」と一致していなかったなら1の努力が

0.5の結果しか生み出さないかも知れない。


しかし、もしそのビジネスがあなたの「才能・個性」と一致していたなら

1の努力が10にも100にもなって結果として現れるかも知れない。



あなたは、今の仕事、ビジネスやっていて「楽しい」ですか?。



やればやるほど自分が成長していると言う実感がありますか?。


何時間やっても「疲れ」を感じませんか?。


朝起きて「仕事」に取り掛かるのが楽しみですか?。


夜、「もっとやってたいのに」と思ったりしますか?。



ちょっと立ち止まって今のその仕事、ビジネスあなたの才能や個性と合っている

のか、考えて見るのも良いかも知れません。


もしかすると、グッとあなたの個性や才能を開花させる仕事が他にもあるかも。


そういう前向きな姿勢で取組むあなたの姿に共鳴した方々がいつしか

ファンになって行くのかも知れない。

むかしランドセルのCMで、「友達100人出来るかな?」と言うのがあったの、

覚えているだろうか?。


小学校の頃は同じ遊びを中心として友達が集い、いろいろヤンチャな事を

していなかっただろうか?。


自分は色々やっていた。



当時、学校の回りには芋畑とかサトウキビ畑が多く存在していた。

※結構田舎だったりする。


学校帰りに友達と勝手に人の畑に入り込み芋を引き抜いては

俺の芋がデカい、いやこっちのがデカいと散々馬鹿な事をやって

農家のじいさんにカマを持って追いかけられたこともあった。


また、学校への近道と称してサイトウキビ畑の真ん中を突き進んだ。


当然邪魔になるサトウキビはへし折って口にパクッ、チューチューしてペッ。


そうしているうちに、多くの友達がそこを通った事によっていつの間にか

何もなった畑のど真ん中に獣道のような物が出来てしまった。


当然、農家の方からは学校に苦情が来ていた。


両方とも子供ながらの冒険心を中心として集まった仲間で起こした出来事だった。



中学、高校生になると部活を通して新たな仲間が作られて行った。


その時は同じスポーツであったり、試合に勝つと言う事が共通の目的と

なって、がむしゃらに協力し合って頑張ったりした気がする。


中高生の頃の価値観と言うものは、育った環境が近かったこともあり

それほど違いはなかったようだ。


スポーツや勉強と言った限られた環境の下での付き合いであったため、

共通の価値観と言うものを見つけるのはそれほど難しい事ではなかったのだろう。



大学生になると色んな地域から色んな奴がやって来た。


女の子の事しか考えていないやつ。


部活のことしか考えていない脳ミソも筋肉でできたやつ。


バイトでの金儲けの事しか考えていないやつ。


バイクの事しか考えず挙句バイクと共に昇天しそうになったやつ。


実に様々だ。



それでもクラブ活動と言うひとつの集団の中で仲間を作り

薄い関係性ながら、活動する事が出来ていたような気がする。


学生の頃は、学校を卒業し社会人になると言う一つの目標があり

学生生活を営んでいた部分がある。



社会人になってからはどうか?。



会社では仕事の付き合いがメインのであり、生き方に関しての価値観

云々と言うものは殆ど関係ない。


例え価値観の違う相手であったとしても仕事と言う枠の中で割り切って

付き合うと言う感じか。


フットサルや野球等のスポーツを中心とした仲間が集い競技に興じること

もあるだろうがあくまでも趣味を通しての仲間に過ぎない。


私達は社会の中にあって当然だが「一人」で生きて行く事は難しい。


必ず誰かと関わりを持って生きている。


しかし、その関わりが「馴れ合い」や「一方的は寄りかかり」であってはならない。


何故なら馴れ合いや寄りかかりで付き合う仲間では、協力し合って前進しようと

言う考えがなかなか生まれて来ないからだ。


昔の私はまさしく寄りかかりのような考えを普通に持っていた。


アメリカ帰りの知人に対し「英語を身に付けたいのでネイティブの友達を紹介して

欲しい」と言った時、彼は「きみはアメリカ人の彼に何を提供出来るの?」と聞かれ

た事があった。



その時、自分が一方的に彼に頼ろうとしていた事に気付かされた。



まさに彼の言う通りである。



そうやって馴れ合いで形成されたグループは、それほど積極的にアグレッシブに

行くと言う集まりではなく、世間に対する不満をぶつけあうような仲間になるはず。


私達は一人では生きて行く事は難しいと言った。


しかし、「一人で生きる力」を身に付ける努力はすべきだろう。


つまり、「個」として生きれるようになるための努力をすると言う事だ。


一人一人が、「個」としての「価値観」と「一人で生きる力」を持った

個が集まり、そこにより大きな共通の価値観を見出した時、馴れ合いとは

全く次元の異なる銀河系レベルの力を発揮する「仲間」となる事だろう。


それじゃ、いったい価値観とは何ぞや?


それは私達の行動の指針となるもの。


あなたに夢やビジョンがあった場合、その価値観と一致している必要がある。


自分さえよければ周りはどうなっても良いと言う価値観の持ち主が、

世界平和を願う事などちゃんちゃらおかしいと言う事だ。


その辺りをもう一度見つめ直してみて、あなた自身の価値観とは

どういったものなのかと言う事を再考して見るもの良いかも知れない。


そして周りを見回し、自分と価値観の合う人は誰かと探して見てはどうだろうか?。


周りと言っても別に近くにいる必要はない。


ネットの時代だ、沖縄の人間が北海道の人間と仲間になったっていいのだ。


或は地球の裏側の人間と仲間になったって。


そうすれば、きっと一生付き合えてお互いを高め合っていける「仲間」が見つかる事だろう。


馴れ合いの仲間ではなく、お互いを高め合える仲間が。


そういう「仲間」が見つかった時、あなたはどういう行動を起こすだろう?。


「自分は彼にどういう価値を提供する事が出来るか?」と言う事を考えて行動するに違いない。


そうすると当然自分自身を高めるようになり、自然と個の力が高まっていく事になる。


個の力が高まって行けば、当然その集合体としての「仲間」の力もアップする。


まさに個人と仲間が「正のスパイラル」で成長して行くと言うことだ。


多くの「成功者」と呼ばれる人達はこういう活動をしていると思われる。


だからこそいつまでも成長していけるのだろう。


あなたもこの成長のスパイラルに入りたくないですか?。



よく悲観的な人の口から



「俺なんか何の価値もない」「何の取り柄もない人間だ」などと言う

言葉を耳にしたりする。



かと言ってそういう人間に対し「お前は役立たずだ」「お前は人間のクズだ」

と言った場合、「はいその通りです」と素直に納得する人はまずいない。



必ず「ムッ」としたり、なかには文句を言い返す者もいるだろう。



つまり本心では自分の事を無価値だとは思っていないのだ。



自分を貶めるような言動をし、他の人に関心を持ってもらいたい、かまって

もらいたいと言うのが正直な気持ちではないだろうか。




人間は誰しも「自尊心」と言うものを持っている。



自尊心のない謙虚さは「卑屈」になり


謙虚さのない自尊心は「傲慢」と捉えられてしまう。



バランスが大事だ。



私達は日本と言う国の中にあり「謙虚な姿勢」

と言うものが美徳とされる社会の中に生きている。



自分の自慢話ばかりをする人は「傲慢」に見られ、

それが過ぎると社会の見えない「空気」に叩かれてしまう。



出る杭は打たれると言うやつだ。



かと言って余りに「謙虚」な姿勢を強調し過ぎると卑屈に映ってしまい

「こいつ何も出来ないやつだなぁ」と思われてしまうかも知れない。



以前書いた記事の中で「根拠のない自信が必要だ」と言うものがあった。



確かに自信を持ち始めるのに根拠は必要ないと思う。



しかし、矛盾するようであるが、可能であれば根拠はあるに越した事はない。




何故か?。




もし、何かのきっかけで「自信」が揺らぐような事があったとする。



「自信」の根拠となる物が全くなかった場合、それが総崩れになる可能性がある。



しかし、根拠となる物を1つでも持っていれば、それが踏みとどまる足場となる。



「そうは言っても俺はこういう部分で頑張って来たから大丈夫だ」と自分自身

を納得させ、「自信」を再構築する事が可能となるからだ。



自分自身に「自信」を持ち始めるのに根拠は必要ない。



しかし、その後は自信の根拠となる自分の「価値」と言う物を高めるか

新たな「価値」を見つけて行く努力が必要だ。



これも以前に書いた事と似ているが、毎日3つ「今日の小さな成功」を書き出す

と言うのも自分に「自信」を付ける良い方法だと思う。



上記は私も実践している事だが、私達は自分自身の成長を客観的に認識する事が

なかなか出来ない。



久しぶりに会った友人に「お前成長したなぁ」と言われて「そうかな?」と

思うのと似ている。


逆に友人を見た時に相手の成長を感じるのは簡単なのだ。



もし私達が自分自身の成長を一つ一つを全て把握する事が出来ていたら

きっと「自分は何て凄いんだろう」と思うに違いない。



たかだか十数年前あるいは、数十年前には、四つん這いになって「バブバブ」

言ってた人間が、今やパソコンを使い情報を発信し、人生を分かったような

口調で?子供に説教をたれる。




どれほどスゴイ事か。




他人と比べる必要はない。




昨日の自分自身と比較すればいいのだ。




どうやって比較するのか?。




1日を終わった時点での「小さな成功」を3つ書き出せばいい。



自分の成長を客観的に見る事が出来たなら



根拠のない「自信」が



裏付けのある「自信」に代わり



気付けばあなた自身の中に大きな「価値」を見出すのも可能になだろう。



そして日々成長を実感することが出来たなら、

あなた自信の「価値」が無限に広がるのもあながち眉唾な話しではない

と言う事に気付くだろう。



そしてその「自分自身が持つ価値」を今度は多くの人に提供し多くの人の

価値発見や成長のサポートをしてあげる事が出来るのかも知れない。


それがネット社会の醍醐味でもあるだろう。