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Redの未来は自分で創る

あなたは自分が変われると思ってますか?。時間が未来から現在に向かって流れている、この事を知ればあなたは変われる。


ここ数か月我が家では「カゴ」の盗難事件が相次いでいる。


資源ごみをカゴに入れて出すとカゴごと消えてしまうのだ。


ゴミと間違われたのか?と思い、次はデカデカと名前を書いて見る。


また、、、ない。



仕方がないので、デカデカと名前を書いた上に「持って行かないでください」

と書いた張り紙をする。また、それまで回収日の前夜に出していた資源ごみを

回収日の朝ギリギリに出すことに。


朝、資源ごみの回収車が来る前に置き場を見ていると、数人の年配の方々

がやって来て「アルミ缶」を回収していた。どうもスクラップの業者がキロ

いくらかで買い取ってくれるようだ。


恐らく彼らは「生活保護」を受ける事なく、自力で生活を営んでいると思われる。


雨の日だろうが風の日だろうが、決まった時間にやって来て回収して帰っていく。


資源ごみは公共の物だと言う方もいるかも知れないが、何曜日の何時にどこへ

いけば、回収できると言う「事前調査?」をした上に日々の回収を行って生計を

立てている彼らを私自身はおおいに応援したい。

※カゴの事は何とかしないといかんが。



あなたは駅前でホームレスらしき人達が「ビッグイシュー」と言う雑誌を売って

いるのをご存じだろうか。


1991年英国でホームレスの自立支援を目的として発刊された雑誌で、日本では

2003年より同誌の日本語版が発売されている。


なかなか職に就けないホームレスの方々が、発売元の「ビッグイシュー日本」

に登録する事によって、販売人となれると言うもの。


定価300円くらいで売り上げの半分以上は彼らの手数料となっている。


私も何度か購入した事があるが、海外の芸能ネタを含むあらゆるジャンルの

情報が掲載されており、なかなか読み応えのある雑誌である。


販売者の中には、既に固定客を持つ者もおり、時々、購入者と談笑する

姿も見掛けられた。


彼らの仕事は生活と直結している。売れなければご飯が食べられないと言う

超シビアな世界なのだ。



翻って私が以前勤めていた会社には、昼間から「ネットサーフィン」をする輩がいた。

役職とは名ばかりで、特にやる事がないのかネットのニュースを見たり、挙句ネットで

買い物をしたりしていた。


更に彼らの特徴としては、チャイムがなるのを待っていたかのように我先にと帰って行く事だ。


かと思うと、飲み会の席では上司や会社への愚痴は言うし、給料が安いと文句を言う。


完全な「従業員メンタリティー」の塊である。



会社と言う鎧がなくなり、社会に放り出され自力で生きて行かなければならなくなった時、

いったいどっちが生きて行けるだろうか?。



日本では会社を辞めて起業しようとする者に対し


「大丈夫か?やめといた方がいいんじゃないか」と言う言葉を掛ける者が多い。



しかし、アメリカ社会では


「おめでとう、頑張って下さい」と言う言葉を掛ける。



日本は「寄らば大樹の影」、

アメリカでは「一国一城の主」が好まれると言う事か。



起業を応援する風土のアメリカと、会社への所属意識の強い日本。



個としての能力が花開きやすい環境はどちらか?。



個の能力が高い人間が集まった集団と能力の低い人間が集まった集団、

集団としてのポテンシャルが高いのはどちらか?。


確かに日本人は協調性の高い民族である。


しかし、集団の中に「力のある者」がいた場合、その一人にその他大勢が

頼ろうとする傾向がある。自分一人くらいやらなくても他の皆が頑張って

くれるだろうと言う気持ちが生じるのだ。



そういう意識を持つ者が混ざりあって果たして集団として高いポテンシャル

を発揮する事が出来るだろうか?。



日本人は諸外国と比べ生産性が低いと言われている。



始めこの話しを聞いた時「そんな事ないだろう。調査の仕方が間違って

いるんじゃないのか?」と思った。



日本の会社はIT化が遅れているからだ、と言う人もいるようだ。



しかし、私が見た限りでは一部の集団をひっぽる人とそれにただ付き従う

だけの人や、集団に紛れて仕事をやった振りをしている者の存在が影響

しているのではないかと思う。




これからの世界、「烏合の衆」の集団では生きて行けない。


一人一人が生きて行くための実力を付け、多用な生き方をし、

いざと言う時には、力を持った個が集い力を合わせて事にあたると言う事が

重要になってくるだろう。



例えあなたが会社員であっても、主婦であっても、個人事業主であっても然りである。


自分個人で生きて行く術を見つけ、個々の力を高めて行く努力が必要だ。


価値観が多様化し、様々な生き方が選べる時代になって来た。


しかし、自分が好きな生き方をしようと思った場合、どうしても乗り越えなければ

ならない壁がある。それは、どうやって稼いでいくのかという問題だ。



もし、私達がアフリカの奥地で生活していたとしたら

1人=1馬力である。



しかし、幸いにも私達はネット社会に生きている。


ネットを使えばあなたの力には「レバレッジ」が利き何倍もの力になって

影響を及ぼす事が出来る。



ある程度金銭的な余裕を持ちながらも「多様な生き方」が出来る時代なのだ。



あなたの望む「自由な生き方」とはどんな生き方?。



今の時代であればそれを叶える事が出来るかも知れない。


ロナウド

目指す理想の体型。


ロナウドな体。


半年間に渡りプロテインを飲み、筋トレをして頑張ったけど左ひじと首が

痛くなり断念。


物事には順序がある、日頃使っていない筋肉にいきなり負荷をかけすぎると

どこかにぼろが出る。日頃体を動かしていてからの筋トレは問題ないと思うが、、。


でもまあ一応、腹筋はそれなりに割れて来た。


気分が乗ったらまたチャレンジしようと思う。



人の体は使わなくなると「錆びる」。


体が硬くなったり、筋力が衰えたりすると言う事だ。


私達の「脳」も同様。

私達の「脳」は過去に生きている。

過去に経験したことを元にして私達の行動を「習慣」として促している。

だから、昨日経験した事はあえて今日は見ようとはしない。

つまり新しい発想をしないと、脳は過去の記憶とばかり仲良くし、私達の

脳は運動する事を止め衰えていくのだ。


その事に気が付いたため、速攻で「ダイソー」に向かった。


目的は「脳トレ」の本を買うこと。


一時期DSでの「脳トレ」が流行っていたが、そこまでお金を掛ける必要はない

と思い、100均にした。


確かに「脳トレ」の本を読んで問題を解いていると、脳細胞が活性化しているよう

な感じになりとても楽しくはあった。


でも待てよ?。


「これじゃ、作者の考えた枠の中での脳トレでしかないではないか」と思ってしまい

1冊終わった段階でやめることに。


次に取り組んだのは、「脳トレ」と言う枠をとっぱらい自由なバカバカしい発想でも

いいから考えて見ようと言うもの。


小さなメモ帳を購入しボールペンと共に常に携帯。


仕事の行き帰り、これまでボォーっとしていた駅までの通勤経路あるいは電車内で、

何かみんなが不便に思っていることはないか、こういうのがあったら役に立つのでは

ないか、これはこうやった方が面白いんじゃないかと言う事を考え始める。


「妄想族」が走り出した瞬間だ。


そうやって「脳」のリミッターを外すと、これまで見えなかった色んな景色が見えて来た。

と言うか平気で「バカ」な発想が出来るようになって来た。


例えば、河川敷を散歩中に

「犬は散歩させてもらえるのに、池で飼っているコイはずっと狭い池の中で

過ごしている。コイを散歩させる事は出来ないかなぁ」


と考えて見たり、


「鳥を自由に散歩させる事は出来ないかなぁ」と考えて見たりした。

※凧を飛ばす要領?


普通「常識的」に考えたら、そんな事発想すらしない。


でもそういうアイディアが出て来た時「あ、常識の殻が1枚剥がれた」と思い

嬉しくなる。


ある時、知人の赤ちゃんがティッシュの箱からテッシュペーパーを次々と取り出して

はキャッキャッキャッキャッと笑っている姿を見かけた。


知人はテッシュを無駄にされてしまい若干「イラッ」と来ている様子で、

さっさと箱を片付けてしまった。


でも自分は違う。

「これをおもちゃにしたら赤ちゃんが喜ぶんじゃないか」と思った。

※例えば水に強い形状記憶系の紙を入れておき、出しても元に戻せるようにするとか。


まあ、妄想し始めると止まらない訳です。

※と言うか「止めて」くれるなと言う感じです。


そうするとこれまで過去の経験や、親から言われた言葉によって制限が掛っていた

「脳」のリミッターが外れ、本当の意味での「自由な発想」が生まれてくるんじゃないかと思う。


そこからこそ、これまでの枠に囚われない「創造的発想」が出て来る。



日本人と言う民族は、組織に属し、規律を守り、言われたことを正しくこなすと

言うことには非常に長けた民族だと思う。


しかし、いざ「好きにやっていいよ」と言われると、組織と言う枠のない状況では

どうやって行ったらいいのかと言う発想がなかなか出て来ない。


サラリーマンから独立起業してもなかなか上手く行かないのはそう言う「考え方」

の部分で「組織脳」から抜け切れていないことも要因の一つだろう。


本来であれば、子供の頃からそういう教育も行って行くべきなのだろうが、

現在の教育制度ではなかなか難しいところもある。


であれば、社会人になってからでも遅くはない。


学校で教えられた価値観が全てだと思っている人達に対し、先に社会人になった

者が、自由に発想して良い事を教えてあげればいい。


そうしてこそ、日本から第二のスティーブ・ジョブズ、第二のビル・ゲイツ、

第二のマーク・ザッカーバーグ、第二のジャック・ドーシーそして彼らを凌駕する

「日本人」が誕生するのだろう。


幸いにも今はネットの時代である。


自分が思った事をネットで多くの人達に自由に配信することが出来る。


勿論、自分の発言には責任を持たなければならないが、人を誹謗中傷する

言葉でなければ、別に万人に受け入れられる意見である必要はないのだ。


得てして斬新なアイディアと言うものは万人受けし辛いものだ。


「不便は発明の母」


「観察は発明の父」


「ネットは教育の兄」


「妄想族」万歳!


先日、とあるディスカウントショップに買い物に行ったときのこと。


片手に赤ちゃんを抱いたお母さんが、荷崩れした結構大量の洗濯用具関連商品を

必至に棚に戻そうとしていた。


そこに30歳くらいの店員さんがやってきた。


てっきり「あ、ここは良いですよ、やっときますから」と言うのかと思ったら、

何も言わずに後ろに立っている。


見かねて片付けを手伝おうと商品を拾い上げるとやっと店員も動きだす。


それでも片付けのメインはあかちゃんを抱っこしたお客さん。


全て積み上げて立ち去った直後に再び荷崩れ。


明らかに「商品の積み過ぎ」が原因。



今度は誰も片付けなかったので、例の店員さんが積み上げていくが

途中で断念し、半分位は放置したまま何処かへ行ってしまった。




2011年3月11日、東日本大震災発生。



これまで経験したことのない揺れに恐怖を感じた人も多くいただろう。


当時自分も東京で高層ビルの23Fにおり、ビルがへし折れるのではないか

と言う死の恐怖を感じたのを昨日の事のように覚えている。


なんと言っても近くの東京タワーの頂上のアンテナが曲がるくらいであった

ので、高層部の揺れの凄さは更に相当なものだったと思われる。


あの時、世界中のメディアが日本人の冷静な態度や秩序ある行動に驚嘆したと

言われている。


災害時に国や都の助けがない状況でも、お互いに助け合い、物を購入する際にも

順番を守り秩序を維持しつつ行動する日本人に大きな感銘を受け

「日本人は素晴らしい民族だ」と称賛したのだ。




次に海外で起きた災害の様子を見て見よう。


2005年8月、合衆国南東部をハリケーン「カトリーナ」が襲った。


その直後から無人と化したスーパーやショッピングセンターを暴徒が襲い

あらゆる商品を持ち去った。中には戦利品を獲たがごとく笑顔で立ち去る

姿も見られた。



2008年5月、中国中西部に位置する四川省にて「四川大地震」が起きた。


死者約7万人と言う大規模な災害だった。


ニュースを見るとやはりと言うか災害のあった各地で商店を襲うなどの略奪行為

が起きていた。


また、揺れが収まったのちにも、我先にと細い道を人々が他人を押しのけながら

逃げる姿も多く見受けられた。



外国で災害があると、先ず起きるのが助け合いではなく「略奪」などの

犯罪行為。人の弱みに付け込むと言うやつだ。


困っている人がいても自ら強力しあって助けようと言う姿が余り見られない。

国民が困っている時に助けるのは政府、行政の仕事であって、税金を払っている

国民は助けてもらって当たり前だと言う意識があるのかも知れない。

そのため、自分達は政府が救助に来るのを待っていればいいのだと言う思いが

働くのだろうか。




戦後日本は社会全体、共同体ではなく、アメリカ型の個人を大事にすると言う

教育が長くなされてきた。


しかしそれでもなお、脈々と流れ受け継がれて来た日本人の心の奥、あるいは

家庭での教育には「和を尊ぶ」「困った時はお互い様」と言う精神が受け継がれて

いる。薄れつつあると言われるが確実に我が家でも生きている。


一時期ビジネスの世界においても日本式の過剰なサービスはよしとされず

お金や人手を掛けずなるべく安く効率的に物やサービスを提供すると言う

風潮が蔓延した時期があった。


ガソリンスタンドにおいては、給油や洗車を全て自分で行うセルフスタンド

なるものがもてはやされ、全てがそれに取って変わられるとまで言われていたが、

実際はちがった。


未だに人間が対応するスタンドは多くあるし、私自身もセルフスタンドより、

少々値段が高くても給油し窓を拭いてくれて、「社内にゴミはありませんか?」

と声を掛けてくれる「人がいるスタンド」の方をチョイスしてしまう。

そこに笑顔で対応してくれる「見知った顔」があるからだ。



小学校の生徒が当番で教室を掃除すると言う風景は他の国では殆ど見られ

ないものらしい。日本人的には、普段自分が使っている教室を綺麗にすると

言うのは別段特殊な考えではない。


しかし、外国人の多くは掃除は掃除婦がやる仕事と言う発想があるのだろう。


普段からそういう教育を受けた場合、いざと言う時にもその教育の「成果」が

出て来るのはある意味当然の事であろう。


日本人にとっては「お互いに助け合い出来るところは自分達で何とかする」、

外国人にとっては「自分の身の回り、自分自身の事以外は行政がやるべきこと」

と言う考えだ。



これはもう家庭における「公共心」教育の問題になるのかも知れない。


冒頭に出て来た店員さんは、社員教育以前に家庭での公共心教育と言うもの

を受ける機会が余りなかったのかも知れない。


教育と言っても黒板などを前に教える教育と言う類のものではない。


「親」が身をもって示し教えてあげる類のものだ。


・人に迷惑を掛けない


・困ってる人に手を差し伸べる


・親を大切にする


これらが下地にある人とない人とでは、普段の生活やビジネスの面でも当然

行動や発想が違ってくる。


・人に迷惑を掛けない     ⇒人の喜ぶ事をする


・困っている人に手を差し伸べる⇒人の悩みを解決する製品を開発する


・親を大切にする        ⇒お客様を大切にする


とサービスの精神と相通ずる世界がある。


つまり私達日本人は諸外国の人達と比較してビジネスの下地を持っていると

言ってもいいのかも知れない。


日本を訪れる外国人観光客が口々に「日本人は親切だ」。


「日本のおもてなしの精神は素晴らしい」と言っているようだ。


つまり私達が普通に接していてもそう見えてしまうのだ。


だとすれば私達は薄れつつあるこの精神を今一度思い起こし磨き上げていけば

どれほど恐るべき「武器」となるだろうか。


ビジネスと言っても最終的には「人」と「人」の関係性において成り立っている。


全てをシステマティックに行う事により得られたお客は、そこよりシステマティック

な会社が現れれば必然的に乗り換えられてしまう。


しかし、譲ってはならない部分、つまり「人」と「人」との関係性を重要視し

あなたのファンと呼ばれる程のユーザーを得る事が出来たならそれこそが

大きな財産となる事は言うまでもない。


件の店員さんが「大丈夫です、私がやりますから。お子さん大丈夫ですか?」と

一言掛けていたら、「お手伝い頂きありがとうございます」と一言掛けていたら

きっとお母さんはその店員さんに好感を持ったことだろう。

そして何かあれば、彼に相談して購入を決めるかも知れない。


これからのビジネスはこう言った「ファン作り」が重要なキーワードに

なるような気がする。