つい先日のこと、パソコンを使ってカチャカチャと仕事をしていると
上の子が、隣の部屋で歌を歌っていた。
ちょっと声がうるさいなと思い部屋を覗き込んで見ると、宿題をやって
いるような雰囲気。
「何してんの?」と聞くと、「宿題やってる」との答え。
「そりゃ、宿題やってるのは見れば分かるよ。何で宿題やってるのに大きな声で
歌を歌ってるの?」と聞くと、
「だってこの宿題つまんないからさぁ、楽しく宿題やろうと思って」との回答。
エーッ、宿題が面白くないから楽しくやる工夫だったとは、、、恐れ入った。
とても「凡人」の私には出来ない発想に「お、そうか頑張れよ」と言って部屋の
ドアを閉めた。
また、ある日の事。
今度は読んだ本や遊んだカードが部屋のあちこちに放置したままになっていたので、
「本とかカードを片付けたら」と言うと「だってどこに片付けたらいいの?」と聞いて来た。
見ると本棚は本が溢れ、カードケースもカードが収まりきらない状態。
「どうすれば良いの?じゃなくて、どうすれば良いと思う?」と聞くと暫く考えて
「要らない物を捨てる」との答え。
「でもまだ使えそう、読めそうな本もあるけど本当に捨てていいの?」
と言うと、また暫く考えて
「漫画倉庫に売っちゃう」。
「そうだよね、そうすればそのお金で、また好きなものが買えたりするよね。
それでも残った物は、お友達に話して欲しいって子がいればあげたらいいし
いなければ捨てるしかないよね」と言う事で話しがまとまる。
早速カードやら本やらゲームソフトやら遊ばなくなった物を一つにまとめ
一緒に行商に出掛ける。
私の時代もそうだったが、通常の学校教育を受けた子供は、すぐに「正解」を
聞きたがる。後者の話しがその良い例だ。
本やカードが片付けろと言うと「どうやって?」と直ぐに応えを求める。
これは、もはや条件反射的な状態になっていて、先ず自分の頭で考えると言う事
を放棄した状態と言える。
つまり、学校教育を受けた結果、答えは「1つ」だと思ってしまっているのだ。
3+3=( ) 答えは「6」のみで式も(3+3)しかないと言う発想だ。
ところが、実際の社会では答えに行き着くプロセスも多数存在するし、答え自体
も多数存在する場合もある。
( ) + ( ) = 6 と言うことだ。
答えは、
①4+2
②1+5
③2+4
④5+1
のどれでも答えになる言う事だ。
こう考えさせる事によって、発想は外へ外へと拡大して行く。
学校教育もホイッと答えと言う「魚」を与える時代から、「魚」の取り方を教える時代
にシフトする必要があるだろう。
この事は、家庭における教育においても然り。
以前は、子供に質問されたら「親の責任」として答えてあげないとと言う感じ
があったが、最近では「君はどう思う」と逆に相手に考えさせるような仕方を
取っている。
そうする事によって、相手は考える癖が付くし、もっと言えば「お父さんに質問
すると、どうせ『君をどう思う』って聞かれる。だったら初めから初めから自分で
も考えた方がいい」と言う事になるのでは?と密かに期待しているところだ。
また、この事は、家庭のみならずビジネスの現場においても同様だと思う。
何か事があると、1から10まで「どうしたらいいですか?」と指示を仰ぐ人がいる。
確かに「報・連・相」は大事だ。
しかし、何でもかんでも即「質問」はどうかと思う。
それは、自分の力で情報を収取し、考え、判断する能力が成長しないと言う弊害
をもたらすからだ。
あなたが、いつまでも「指示」を待つ立場の人間であり続けるのであれば、それでも
良いかも知れない。
しかし、あなたが人の上に立つ立場に立ったり、あるいは一人で独立し起業する
立場になった時、この習慣は致命傷になりかねない。
と言う事で、「転ばぬ先の杖」ではないが、もし学校教育でこのような教育をして
いないのであれば、先ずは家庭から実践して見てはいかがだろうか?。
ただ、その際注意すべき点が。
スーパーやコンビニ、書店に行った場合、そこで目的の商品を探すために
必ず自分の力で探して見せる、などと訳の分からない事をしないこと。
それぞれの店舗にはそれぞれの「専門家」がいる。
時には、その道のプロに聞いた方が「無駄」な時間を使わずに済む事もある。
1.それをする事により自分の知識や経験の蓄積になる⇒自分で調べる
2.それをしても時間を無駄にするだけ⇒プロに聞く
と割り切って考える事が必要だろう。