これまでのストーリー
夜中に一度目覚めたが、揺れ動く船の中で眠って、目が覚めると明るくなっていた。
窓は曇り、外は見えない。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
川の水と外気の気温の差があるのか、川面からモヤが立ち上がっている。
その中を数羽の小鴨たちが泳いで、餌を探し求めていた。
朝日が川崎側の屋根に当たって、急に街の朝が動き始めたようだ。
炬燵のテーブルで八十才のホームレスの原稿を書き始めたが、進まない。
お茶を飲んで、インスタントコーヒーを入れた。
鯵の開き、インスタント味噌汁、侘しい朝食だがホームレスと思えば悪くない。
携帯電話が鳴った。
「今どこ」
「うん、河口だけど、何が用事」
「いや、船が見えないから」
「今、朝飯食おうと思ってね。鯵の開き焼いたんだけど、食べる」
「いいねぇ、俺の分ある」
「あら、石川さん、仕事だろう」
「うん」
「十分くらいしたら行くから、橋のところで待ってて」
橋の下で、焼酎の瓶を持って立っていた。
よろけている。
危ないので、急いで船を着けた。
「そんなもの持って来なくても、ここにもあるのに」
「ありがたいね。あんたに放って置かれると、金がなくなったらもう飲めない。その辛さっていったら、ないね」
「そう、中に足を入れなよ」
「うん。あっ、暖かい。何これ、湯たんぽ」
「うん。足が冷えるんでね」
「俺もだよ。もう長くないね」
「淋しいこと言うなぁ。俺、置いて逝くなよ」
「どうも、足が弱くなっちゃって。夕べ小便に起きたら転んじゃって、つかまる所ないから立てなくて、参ったよ」
「一寸、飲み過ぎじゃないの」
「だけど、長生きしたって、もっと惨めだし、仲間も幸せな死に方してないしね」
もう、そこまで来ているのか。
言うことに、重みがあった。
多田さんには、私でも頼りらしい。
それでなくても弱っているのに、深酒はして欲しくない。
そう言っても、それしか今の多田さんには楽しみもない。
泊さんのことは、お互い忘れるようにしている。
私が帰国したら、石川さんが船に泊まるようにしていたが、寒くなると多田さんの方が必要だった。
ただ、よろけて川の中に落ちたら助からない。
常に、石川さんと一緒に行動して欲しかった。
飲むとしつこくなるので、目の前で飲んでもらいたくない。
こっちがそう思っても、愚痴を言いたくて飲む。
一人で飲む時、話しかけられる。
それを無視すると、機嫌が悪い。
だが、自分が我慢して合わせるのは、長続きしない。
やはり、船の中では自分一人の時間が必要だ。
潮の香り、はぜ釣り、芦のざわめき、汽笛、アメリカに持ち帰りたい。
同じ所に定住すると、嫌なことから逃れられない。
その点、船は移動できる。
この早朝の体が引き締まる冷たさ、川の中にいると魚や鳥が隣合わせだ。
ホームレスの人たちは、その生活に満足している訳ではないだろうが、私は自然に充分に満足し感謝している。
時に競輪、競馬でうつつを抜かし、銭湯で体を休め、船を静かな水辺に動かして、ゆっくりと物思いにふける。
それが、今の生活だった。
やはり、金は必要だった。
多くは要らない。
だが、食べたいものを食べ、船を走らすガソリン代、プロパンガス代、そういう金は必要なのだ。
携帯電話はあるが、その生活からできるだけ離れていたかった。
もう先が短いからか色々と面倒になり、気が乗らないことは避けるようにしていた。
泊さんのようなホームレスは、石川さん達とは違う。
人に頼れるだけ頼り利用して、誰からも信用されなくなった成れの果てのホームレスは、苦い苦労をしていない。
そういう人たちを助けようとしたのは、私だ。
自分の責任である。
街はオリンピックモードなのに、ホームレスは増え続けている。
泊さんと縁が切れて、頭痛の種はなくなった。
もう、毎週さつま汁を作ることもなく、忙しく追われることもない。
不景気なのだろう。
新しいホームレス、若いホームレスも増えている。
石川さんの空き缶集めも、以前より大変らしい。
やはり、そういうところに影響が出ているのだ。
つづく



