これまでのストーリー
私は家内を亡くして三十年になるが、今、恋に芽生えている。
恋といっても、特定の人との関係ではなく片思いかもしれない。
燻っている年寄りの恋は、燻っててちょうどいい。
燃え上がると火傷する。
夜中に目覚めると、窓に夜半の月がある。
半天木の高い高い梢の上で輝いているのを見ると、一人で見るのは惜しい。
だが誰もいないし来てくれない。
まぁ、あばら家の中の破れ障子に隙間風が吹き込んできて、破れた紙がひらひらと揺れるのを見ると、恋人を招待できる部屋ではない。
そこで夜中に思い立って、破れた所をカミソリで切り取って紙を貼った。
古い紙は黄ばんでいるのに、新しい紙は白すぎて目立ちすぎる。
目が覚めると、その白さが目につく。
まだ下の方は破れているが、続けるのが嫌になって途中で止めた。
窓を開けると、焼き芋の香りがした。
そうだ、夕方枯葉の中に四個の芋を投げ込んでいた。
懐中電灯で照らしてみると、いい具合に焼けている。
カリフォルニアの友達に電話した。
夜中の二時で遅過ぎたので、途中で切った。
四個は多すぎるが、残したら食べないので無理して食べた。
カリフォルニアは乾いていて、焚火なんかとんでもないし、東京でも出来ない。
落ち葉で焼き芋の出来る田舎に住んでいる私は幸せだし、その燻りでこんがりと焼けた芋を食べさせてやりたい。
『短調』や『新植林』の作者の多くがカリフォルニアだが、『平成』誌の作者は、アメリカ中から日本までおられる。
戦後七十年、忘れかけている言葉を掘り起こして同年の友達と語り合っている。
我々は、防空壕に逃げ込み空襲警報を聞いた仲間である。
防空頭巾、回覧板、配給という言葉があった。
戦地にいる兵隊さんのために慰問袋を詰め、幼い私も千羽鶴を何羽か折った。
子ども心に負けるとは思ってもいなかった。
それが負けた。
今は、その苦しみを知らぬ連中が戦いをしたがっている。
日本だけではなく、周りの国も勝つと思っているから愚かだ。
戦いは勝っても負けても、多くの人を不幸にする。
苦しみを知らない人は目が覚めない。
それを思うと、苦労しても私たちはいい時代に生まれ育って終わるのだろう。
七十年前の私は、何も知らずに大人しくついて右往左往したのだが、今は周りも見えている。
中国も韓国も、北朝鮮も様子が違う。
自分たちはガードマンを付けてゴルフをするほど臆病なくせに、若い青年を戦場に送り込むのだから呆れる。
まぁ、今の若者、戦争が始まったら、自衛隊を除隊するのだろうか。
そうなったら誰が戦うのだろう。
西部劇でも、丸腰の男は撃たない。
その方が安全と思うのだが、もう世の中はそれでは終わらないところまできているらしい。
七十年は、古傷を忘れさせるほど永い何月だっただろうか。
もう老いて世の中の役に立たない枯れすすきも、孫たちのことが気にかかる。
子どもの頃は防空壕で命が助かったが、そんなものは何の役にも立たない。
政治家に芋の蔓の入った雑炊を、一年くらい続けて食べさせてやりたい。
完