おはようございます。
連日の猛暑に体か追いつきませんね。
まだ梅雨も明けきらないのに、昨日は気温が37度もありました。
さて、ここ1年間、ある俳誌に鑑賞文を書いてきましたが、先日ようやく最後の原稿を送り無事に終了しました。
雑誌の原稿は、いつも校正のかたから細かな言葉遣いや文法についてのチェックを受けます。
校正の人はまさに最後の頼みの綱で、筆者が恥をかかないように常に目を光らせていてくれるありがたい存在です。
ただ、最後の最後にこの鑑賞の”内容”について、校正の方から指摘が来たのです。
あちこちで句評を書いてきたのですが、こんなことは初めてでした。
具体的には
「案山子を立てるため、疲れを押してもう一度畑に戻った・・自註等に書かれていた事実でしょうか?」
と指摘されたのです。
鑑賞とはそれぞれ個人によって異なる視点が想定されます。
1つの句に対して100人が100の感じ方をすることも有りうると感じています。まさに読み手の自由です。
一つの句を前に、同じ一人の人間が感じる感想は、その日の体調や、感情によっても変わるものです。
だからこそ俳句は楽しいのであって、ドラマがあり、詩があると思うのです。
そこに来て、「事実でしょうか?」と赤が入ったことに驚きました。
たまたま間に人を介してのやり取りだったため、その方を通して”事実か確認する必要がありますか?あくまでも自分の感じたことですが?”という趣旨のやり取りを交わしました。
ところが、どうも気分を害されたようで、「これ以上は放っておいてよろしいのではないでしょうか」というお返事が最後に届いたのです。
もちろん直接、私にそういう言葉を送ってきたのではなく、間に入っている人に届いたのですが、その人がそのまま転送してきたため知るところとなった次第で、かなり悪い後味が残りました。
私も、自分の結社の校正をやりますが、”あくまで文法や、誤字脱字を見つけるのが目的であって、決して自分の意見や見方を出してはいけない”と教えられてきました。
鑑賞、というのは決して事実かどうかを考えてするものではないと考えます。私はそう考えますが、皆さんはいかがですか?
写真はお中元の水ナス。泉州の水ナスは本当に美味しいですよね。