鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦 -168ページ目

福禅寺・対潮楼

対潮楼
対潮楼 posted by (C)鳶眼

【福禅寺・対潮楼(ふくぜんじ・たいちょうろう)
福禅寺の書院造り客殿を『対潮楼』と呼ぶ

福禅寺庭園8
福禅寺庭園8 posted by (C)鳶眼

◎山号:海岸山
◎院号:千手院
◎宗派:真言宗・仏教寺院
◎本尊:千手観音<鎌倉時代>(市指定重要文化財)
◎創建:平安時代(950年頃)
◎開基:空也上人(弘也上人)・光勝
◎正式名:海岸山 千手院 福禅寺
◎文化財:千手観音、木造・地蔵菩薩半跏像<鎌倉~室町時代>(市指定重要文化財)、木造・役行者像及び二鬼像<室町時代>(市指定重要文化財)、国史跡 表・話・編・歴

◎所在地:広島県福山市鞆町鞆2 〒720-0201
◎入場料:大人:拝観料200円
◎営業時間:8:00~17:00 年中無休

備後西国三十三ヶ寺 第二番札所
京都大覚寺の末寺
本堂:観音堂(桁行三間、梁間四間の入母屋造)
客殿(使館):対潮楼・書院造客殿(桁行六間、梁間五間で向唐破風の玄関)


海岸山

対潮楼

対潮楼

境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として 国の史跡に指定されている。
江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、 日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。
通信使の残した漢詩・書跡を鑑賞するため、 多くの文人墨客が対潮楼を訪れたという。
座敷からは瀬戸内の島々を見渡すことができ、弁天島、後ろに仙酔島が見える。
住職の在寺時には興味深い解説を聞くこともできる。
「日東第一形勝」を望む楼内には、通信使の墨跡を模刻した扁額が並ぶ。
福山藩の命により、李邦彦(イ・パンオン)の書を板に彫らせたものもある。



福禅寺・対潮楼の所在地はコチラ

◎鞆の浦の歴史・伝記『鞆史』/江戸時代篇
http://uratami.web.fc2.com/discover/history12edo.html

◎福禅寺・対潮楼の歴史◎
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833810319.html

日東第一形勝
日東第一形勝 posted by (C)鳶眼

日東第一形勝
日東第一形勝 posted by (C)鳶眼
 揮毫者:李邦彦(南岡:従事官)
 揮毫年:1711年




【1748年(延享5年)】
将軍家重の襲職祝賀の正使・洪啓禧(ホン・ゲヒ)は、この客殿を「対潮楼」と命名し、九代将軍の慶賀使・洪景海(ホン・キョンヘ)が「対潮楼」の書を残す。
江戸時代、通信使の残した漢詩・書跡を鑑賞するため、多くの文人墨客が対潮楼を訪れたという。
第10回通信使は「福禅寺を宿所にできなければ船から降りない」とした。
通信使は対馬を経て江戸に行く途中、 いちばん景色が良い所に泊まって 国賓級のもてなしを受けるのが慣例だった。
しかし彼らが鞆の浦港に到着したとき、 福禅寺は地域の役人たちの宿所として使われていた。
これに頭に来た通信使一行はその晩、 船でひと晩を過ごし翌日早く江戸に発った。
彼らは江戸訪問を終えて朝鮮に帰る途中、 福禅寺に泊まることができた。


対潮楼(對潮樓)
対潮楼(對潮樓) posted by (C)鳶眼
揮毫文字:對潮樓
揮毫者:洪景海(正使二男)
揮毫年:1748


福善寺本堂
福善寺本堂

対潮楼の欄間
対潮楼の欄間

朝鮮通信使の漢詩
朝鮮通信使の漢詩

キリシタン関連
キリシタン厨子

見ざる
見猿・言わ猿・聞か猿

琴
対潮楼での筝曲(そうきょく)

宮城道雄の「春の海」の作曲イメージとなったと言われ、万葉の昔からその景色の美しさが詠われている風光明媚な鞆の浦。
朝鮮通信使の常宿としても使用されていた対潮楼(たいちょうろう)において、当時さながらのシチュエーションを楽しみながら、琴の演奏をご堪能いただけます。
毎年、秋開催


【野々口立圃(ののぐちりゅうほ)
(1595-1669)
文禄四(1595)年、京に生まれた野々口立圃は、温雅でユーモアのある文筆家として広く知られている。福山藩第三代藩主・水野勝貞の招きにより、慶安四(1651)年から、寛文二(1662)年まで福山に滞在し、藩士や町人衆に弟子や同好者を得て、福山における文学の普及に大きな功績を残した。
名は親重(ちかしげ)。別号を松翁・松斎・如入斎。雛人形細工を業としたという。
連歌を猪苗代兼与、和歌を烏丸光広に学ぶ。
俳諧は貞徳門だが、のち独立した。
画・文にも巧みで、俳画の体をなす絵を残す。著「おさな源氏」「はなひ草」「河船徳万歳」など。

◎関連ログ
野々口立圃/備後國鞆之浦観音堂之縁起
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10832664702.html

【考察】鞆町並みひなまつり/野々口立圃
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10480085154.html





通信使
(鞆の浦に入港する通信使船団図屏風)

享保四(1719)年、第九次通信使の製述官(公文書など作成)・申維翰(シンユハン)が、壱岐にむかう通信使船団を見て「あたかも一島が空になったような感じ」と感嘆しました。壱岐をへて筑前に渡り、新宮沖の藍島(相島)に到着しました。福岡の黒田藩は52万石のメンツをかけて、動員された船50隻、船頭、水夫3600人、新設された建物24軒と、膨大な経費と人力を投入しました。


通信使

広島県福山市の備後灘にせり出した半島の南端に位置する鞆の浦は、天然の良港で、鞆の浦の高台に建てられた「対潮楼」は通信使のための迎賓館でした。上記の絵は近年現われた絵で、正徳元年の通信使船団を描いたものと言われています。



通信使


【産経新聞ニュース】
200年前の版木2枚復元
http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/hiroshima/081001/hrs0810010331002-n1.htm



その他、福禅寺・対潮楼の詳しい説明は【澤村船具店HP】でご紹介されています
http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/fukuzen/fukuzenji.html

松江山明圓寺

海寶山淨泉寺

海寶山淨泉寺/本堂
海寶山淨泉寺/本堂 posted by (C)鳶眼

【海寶山淨泉寺】

宗派/浄土宗
山号/海寶山
院号/
開基/
本尊/阿弥陀如来
住所/福山市鞆町鞆551
ホームページ/http://www.jyosenji.jp/tera.html

もともと、水吞村鍛冶屋にあったが、水吞村は法華寺でかためられていたため、元和年間(1615~1624年)慶存(墓石には閑誉上人)という院主が現在地に移し、阿弥陀寺の末寺となり創建と伝えられる。
鞆・関町の海岸にあるため、関阿弥陀寺とも呼ばれる。
本堂は寛文年中(1661~1672)再修。「海寶山」の扁額は宝暦十三(1763)年、朝鮮通信使が投宿の際、学士正々斉の揮毫(きごう)と云われるが、現在は不明。
福禅寺・対潮楼は、国史跡の「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として著名であるが、これに隣接する淨泉寺も朝鮮通信使の上官(製述官など)の常宿となっていた。
製述官は、接待役の福山藩や宝暦度の岡藩の儒者と唱和詩文を残している。
当時は海に面した絶景を臨む立地にあった。それを伝える「迎仙閣」の書額が座敷に掲げられている。

【「迎仙閣」の書】
天游の落款があり江戸中期に京都で活躍した文人・儒者の服部蘇門(1769年没・46歳)の書と
思われ、仙酔島を迎える程の眺望のよさを「迎仙閣」と命名したと思われる。

【木像阿彌陀如来坐像】像高31cm 厨子の高さ88cm
京仏師の作と思われる。江戸中期の作。
厨子に脇侍を雅に描き、三尊像としている。
台座も技術的に巧みである。

【龍馬観音】像高約100cm
龍馬観音
龍馬観音 posted by (C)鳶眼

慶応三(1867)年四月、いろは丸事件談判の際、坂本龍馬(当時の変名:才谷梅太郎)が浄泉寺を訪れ、観音像に交渉の進展を祈願したという話は記録には残されていないが、寺の檀家の間で語り継がれてきたという。
観音像は大正時代頃まで寺の境内にあったが、当時は寺の近くまで海が迫っており、台風による高波で流されてしまったという。龍馬が祈願した観音像が大正時代頃まであったと伝えられていることから、大仲伸隆住職観音像の再建にあわせて建てた。「龍馬観音」と命名し、「鞆の魅力を伝える、新しい観光名所になってくれれば」と期待している。