鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦 -165ページ目

正覚山靜観寺

01正覚山靜観寺
01正覚山靜観寺 posted by (C)鳶眼

正覚山靜観寺(静観寺)
松上げ地蔵尊
衆生抜苦・除災・延命

宗派/臨済宗妙心寺派
山号/正覚山
院号/
開基/最澄
本尊/地蔵菩薩
住所/

大同元(806)年、創建。山門に最澄(伝教大師)・帰朝の始修「一心三観、之地也」と記された梁題を掲げる。天台宗の古刹と伝えられる。
往古は七堂伽藍を具備し、五重の塔婆が高く鞆の浦の空に聳え化導盛にして法脈も栄え、安元元(1175)年、小松内府平重盛卿が厳島神社参詣の途、護身の阿弥陀仏像を安置して一宇(現:小松寺)を建立した。寿永二(1183)年、二男資盛の命により平貞能京より重盛公の遺髪を持参す、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
延慶元(1308)年、寺運退転して彦覚禅師が中興して開山し、その後、法燈国師派に改め、彦覚禅師は正和四(1315)年三月、入寂する。
延元元(1335)年、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と小松寺に宿陣して軍義。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
暦應二(1339)年、鞆合戦の時、足利尊氏勢の陣する所となり、伽藍全部兵焚のため多くの文化財・什宝が焼失・または盗難され、烏有となり、遺った佛像典籍を集めて小庵を結んだが、二百年後の天文九(1540)年、再び類焼に陥り焼燼した。

天正六(1578)年七月十六日、毛利輝元と足利義昭による山中鹿之助、首実検が行われる。

元和二(1616)年、久留米梅林寺住職・湘山和尚が小松寺と共に再興し妙心寺派に属すが、
寛政九(1797)年、文化十四(1817)年に火災に遭い、文政二(1819)年、指山和尚の奔走にて本堂は再建したが、天保三(1832)年八月、落雷で大破した。

沼名前神社(当時:祇園宮)大宮司大宮氏の壇寺で歴代墓がある。
江戸時代、朝鮮通信使の常宿だった。

03正覚山靜観寺
03正覚山靜観寺 posted by (C)鳶眼

正覚山靜観寺14
正覚山靜観寺14 posted by (C)鳶眼

正覚山靜観寺08
正覚山靜観寺08 posted by (C)鳶眼



【一石五輪塔】高さ154cm
伝教大師の供養塔。
近世初期頃の作。

【石造地蔵菩薩立像】総高114cm
像の裏面に「工匠 泉挙」とある。
大正時代頃の作。近代のものとしてはかなりの優作で特に顔の表情が美しい。
木彫り仏にせまる石仏で複雑な造形技術をもった作者で、森下博氏の寄進である。



◎関連ログ

最澄の「一心三観」
http://ameblo.jp/rediscovery/theme-10009127046.html

最澄(伝教大師)
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10304200015.html

失われた五重塔/鞆の浦静観寺
http://secret.ameba.jp/rediscovery/amemberentry-10184206840.html

「鞆ノ津日記」安国寺は、安国寺恵瓊が復興

「鞆ノ津日記」~安国寺は恵瓊が復興?

 「次に質問ですが、鞆ノ津の安国寺エケイの住居は寺のやうな造りになってゐたのでせう。別荘風なところだったのでせうか。当時鞆ノ津には山城の城主(土豪)や地侍がたくさん住んでゐた筈だと思ひます。小早川家に統一されていたのでせう。世の先端を行く港町だったのではないでせうか。
 おついでのとき御返事をお願ひします」(83・6・28付封書)

 「昨日、鞆幕府といふ本を入手しました。安国寺恵瓊のことが書いてあるので大体助かりました。
 京都に住み鞆にも住んでゐたやうです。)。
 恵瓊は書きにくいので恵瓊の影武者なにがしが茶湯の会に出ることにします。(略)鞆のことは大体わかりましたから、後はもう御心配御放念を願います」(83・7・8封書)


 1570年に毛利元就が備後を領有するまでは、各地で大小強弱の武力集団が縄張り争いの鎬(しのぎ)を削っていた。元就死後は孫の輝元が領主となり、鞆の築城は1576年。織田信長に追放された将軍足利義昭が毛利を頼って鞆に逃亡。追討にくる信長勢を回避するための築城という。「鞆幕府」とは義昭滞在に因んでのことだが、はたして「幕府」(政治権力中枢)と言えるのかどうか。安国寺恵瓊は毛利家の政治・外交僧。関ヶ原合戦後に徳川家康により斬首された。鞆の安国寺は、衰微していたのを恵瓊が復興したと伝えられているが、当時の面影を残すのは狭い庭(県史蹟)だけである。
 「鞆ノ津日記」と題した連載第一回を海燕で読んだとき、これは「神屋宗湛の残した日記」の続篇、または姉妹篇になる小説ではないかとの予感と驚きがあった。

毎日新聞 2000.9.14



鞆郎くん
『鞆の浦いいもの再発見!/Discovery! 鞆の浦』
◎みんなで考えよう「まちづくり」
 一人百歩の前進よりも、百人一歩の前進を!*

【鞆のための「まちづくり書籍」一覧】
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10155533035.html


画家/(故)藤井軍三郎さんが、遺してくれた言葉です

大雄山正法寺

大雄山正法寺/山門
大雄山正法寺/山門 posted by (C)鳶眼

【大雄山正法寺】
毘沙門天王
財運招福・家内安全

大雄山正法寺/山号標
大雄山正法寺/山号標 posted by (C)鳶眼

宗派/臨済宗・妙心寺末
山号/大雄山
院号/
開基/深谿和尚
本尊/釈迦牟尼仏
住所/

大雄山正法寺/地蔵
大雄山正法寺/地蔵 posted by (C)鳶眼

慶長三(1598)年、京都・東福寺派(臨済宗)の守意を開基とし、深谿和尚の創立と伝わる。
正法寺は安国寺の南隣りに位置する。
当時、安国寺恵瓊(えけい)は安芸と備後安国寺の住持を兼任し、その後、慶長三(1598)年には東福寺の住持となっている。こうした関係から正法寺に東福寺派の和尚が出向いたと思われる。

その後、元和九(1623)年、深溪和尚が妙心寺の末寺として再興をし、のちに安国寺の塔頭六ヶ寺の一つ(末寺)となった。深溪は庭作りの趣味を持ち、奇木、珍石を多く集めて寺庭に数奇を凝らしたという。
その後、天和元(1681)年「あくた川のまき」には、

『ひとやらぬ花はむかしの作り庭』と発句した。

江戸時代、朝鮮通信使の常宿であり、境内には、鞆町の多くの信者より寄進された十六羅漢像(安政五年・1858年)を安置したお堂もある。


【木造釈迦如来坐像】高さ46cm、総高72cm
正法寺の本尊で、宝冠をつけた釈迦如来。
像内に「延宝二年大坂本町五丁目安阿弥未世中奥 大佛師 坂上宮内法橋宗慶甲寅正月吉祥日」と墨書されている。
かなりの技術をもった仏師による精神性の込った優品。
江戸時代前期の延宝二(1674)年の作品。

【木造達磨大師坐像】像高48cm
像内に「延宝四丙辰年九月達磨大師尊像 大佛師宮内法橋宗慶作」の墨書がある。
延宝四(1676)年の作。
上記と同一作者で小品ながら気迫の込った優品。
中国的な雰囲気を意識した作となっている。また、安国寺の木造達磨大師坐像の作者も同じである。

【木造開山深渓濬坐像】総高39cm
曲ろく(いす)の裏面に「維時文化第九壬申冬十月右厄當寺開山深渓濬和尚尊像 大雄山正法襌寺 住持恵耕謹鼎造」の墨書がある。文化九(1812)年の作。
近世になると仏像がだんだんと退化する中にあって、本作は精神性までも追求した優作。
作者は不明だが中央仏師によるものと思われる。
禅宗では特に師の肖像画「頂相」が尊重され、本作も、開山(中興)の頂相彫刻になる。

【十六羅漢像】
安政五(1858)年の作。

【羅漢堂】
文政五(1822)年建立。


※深谿和尚は各書物により表記が異なる。「深渓」「深溪」とも書かれている。
※開山には諸説ある。



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