鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦 -167ページ目

福禅寺・対潮楼の修復/町民有志「解体再建を支援する会」の偉業

福禅寺・対潮楼から
福禅寺・対潮楼から posted by (C)鳶眼

1990年、創建以後300年を経て対潮楼は傷みが激しく本格的な解体修復が必要となった

修復費用は約1億円・・・

広島県と福山市からの援助を除くと、福禅寺の費用負担は2千5百万円・・・
福禅寺は費用が賄えず修繕は暗礁に乗り上げていたが、町民有志は「解体再建を支援する会」を結成し、募金を始めた
その『善意の輪』は全国に広がり、支援する会が予想しなかった思いがけない援助が寄せられた。
「日韓の友好の歴史を語り継ぐ大事な文化財だ」と在日韓国人の団体が協力を名乗り出てくれたのだ。

当初、募金の目標達成は難しいと見られたが、大勢の協力により目標を大きく上回った。
「解体再建を支援する会」会長の故・藤井軍三郎氏は
人の心の温かさが本当に身にしみたと話す

そうして1992年4月5日、見事に蘇った対潮楼で完工式が行われた。
約200人の出席者の中には韓国総領事の姿もあった。

文部省(当時)は1994年10月、対潮楼を「朝鮮通信使遺跡」として国史跡に指名した。


対潮楼(對潮樓)
対潮楼(對潮樓) posted by (C)鳶眼

福禅寺の朱印

福禅寺・対潮楼の所在地はコチラ


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江戸時代中頃、鞆の浦を訪ねることは朝鮮通信使にとって旅の楽しみとなっていた
1748年7月、第十次の朝鮮通信使の文臣、正使・洪啓禧は江戸からの帰路、鞆の浦に立ち寄り福禅寺に宿泊した際、客殿からの美しい眺めに感嘆して「対潮楼」と命名、息子で書家の洪景海がその名を書き記した。

洪景海の書

その書は現在も対潮楼に存在する。

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福禅寺・対潮楼の歴史
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10154747291.html

阿弥陀聖/空也上人

「承平年中(931~937)、赤坂村に新庄太郎あり。その妻三十歳、月輪懐に入ると見て孕(はら)み、一女子を産む。明子姫と名つく。容顔美麗、殊に管弦舞曲を好み、其の名天下に著はる。天暦帝<村上天皇>召して妃とし、皇子を生ましむ。妃懐郷の念厚く、空也上人に命して此寺を営構せしめ給うとの伝説あり。本寺は景勝の地に在りて四国の眺望頗(すこぶ)る佳しなり、嘗(かつ)て朝鮮聘使の旅館たりし時日本(日東)第一景勝の額を書して寺に附す、是れ騒客の吟詠する所たり。寺の庫裏に對潮楼の名あり。また、境内には護摩堂、大師堂、地蔵堂あり。(広島県史社寺志/大正12年)」

「真言宗 海岸山千手院 福禅寺 開山空也上人 、天慶(938~947)の古(いにしえ)より近き比迄、寺号もなくて観音堂といひて鞆三分の一を寺領として饒(ゆたか)なりしか、永禄 (1558~1569)の初め炎上し、什物、舊(古)記焼失す。文禄(1593~1596)の比、寺領も絶え、住職の僧もなかりしか、慶長十五年(1610)法印栄尊再建して福禅寺と号す。
二王門 二王、石躰なり。安国寺に法灯国師の木造有、所俗黒佛という、件の黒佛、夜な夜な町家の軒下を通りて當寺の観音へ参詣したまふ。若(もし)是に行逢ハ、かならす煩(わずら)うと云いつたえたり・・・。
暦応(南北朝時代)の比は當寺も臨済宗なりけるにや、法灯国師、當寺より毎日通ひて安国寺を創造せらる・・・。磐台寺恵供首座物語せられき・・・。
是を以て考るに、栄尊より以前も福禅寺といひけるならん。栄尊、寺号を付けるるならは真言の縁ある字を用いらるへき事なるに、福禅寺といへるは法灯の付られたる寺号なるへし・・・。 (備陽六郡志/1763年)」



【空也(くうや)上人】

平安時代中期の僧。天台宗空也派の祖。
阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。
民間における浄土教の先駆者と評価される。

踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。
門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に、多大な影響を与えた。

◎法号/空也・光勝
◎尊称/阿弥陀聖、市聖、市上人
◎父 /醍醐天皇
◎生地/尾張国
◎没地/京都・西光寺(現、六波羅蜜寺)
◎宗旨/空也派
◎寺院/西光寺
◎師 /延昌


『空也誄』(くうやるい)や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』に、生存中から空也は皇室の出という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。


延喜二十二(922)年ごろ:尾張国の国分寺(尾張国分寺)にて出家し、空也と名乗る。
若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・橋・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。

天慶元(938)年:京都で念仏を勧める。

天暦二(948)年:比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。
(ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある)。

天暦四(950)年:金字大般若経書写を行う。

天暦五(951)年:十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。

応和三(963)年:鴨川の岸にて大々的に供養会を修する。これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深める。東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。


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◎関連ログ/Discovery! 鞆の浦

「天暦の帝(みかど)/村上天皇」
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833793773.html

「天女の再生/新庄明子17歳」
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833794276.html

鶴林山地蔵院

【鶴林山地蔵院(かくりんざんじぞういん)
金剛健歯観音
歯の健康守護(歯吹仏)

鶴林山地蔵院/山門
鶴林山地蔵院/山門 posted by (C)鳶眼
この石垣までが海だったとされる。鞆城は水軍城だったことが、うかがえる。

鶴林山地蔵院/山門
鶴林山地蔵院/山門 posted by (C)鳶眼

鶴林山地蔵院/山号標
鶴林山地蔵院/山号標 posted by (C)鳶眼


宗派/真言宗大覚寺派・金剛峯寺末(広島県史社寺志)・草戸明王院末(備陽六郡志)
山号/鶴林山
院号/
開基/宵真法師
本尊/木造地蔵菩薩
住所/広島県福山市鞆町後地 1323→MAP

30世:山川聡明師



応永十五(1408)年以前の寺歴は不詳。
応永年間(1394~1427年)に宥真法師による中興。
文安四(1447)年、越智通顕が瑞應寺に寄進したお経を室町幕府将軍・足利義昭の侍医・武田法印(竹田兵部)が天正十八(1590)年に地蔵院に「大般若経(全600巻の内、約380巻が現存)」を寄進。
寛文年間(1661~1672年)には荒廃し、落莫したが、
天和元(1681)年、深宣法印が再興し、今日に至る。

福島正則寄贈の両界曼荼羅、毛利輝元寄贈の唐画、涅槃像。
『徳川将軍家より祈祷申附の古文書』が存る。
本堂正面の秘佛地蔵菩薩は「中国地蔵尊霊場第八番」の御本尊。
脇室の十一面観音は全国で唯一の歯吹観音で県重文に指定され、「鞆の浦古寺めぐり」の御本尊である。
走島の壇徒が多い。



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【脇室の佛像】

正面:十一面観音(金剛健歯観音)(県重文)
右脇侍:不動明王
左脇侍:毘沙門天
室町初期の作であり、 中央の十一面観音は木造寄木造玉眼入り、白毫をはめ、化佛十一面は完存す。
歯を見せている(歯吹き)ところから金剛健歯観音として信仰をあつめている。


【金剛健歯観音】
正しくは十一面観音菩薩様です。
口を少しお開きになり、歯をのぞかせて(歯吹佛)衆生に対し金口説法し足を一歩踏み出して、悩み苦しむ人々をすぐにでも助けに行こうとなさっている極めてまれなお姿をした仏様です。
この歯吹観音は全国でも当山のものがただ一体で、皆様の歯の健康を守護する佛様として信仰を集めております。

ご真言 《おんまかきゃろにきゃそはか》

鶴林山地蔵院
鶴林山地蔵院 posted by (C)鳶眼

山門階段下にある説法と本堂脇にある説法(個人的に地蔵院の説法は好きです。達筆だし・・・)

鶴林山地蔵院/説法
鶴林山地蔵院/説法 posted by (C)鳶眼

鶴林山地蔵院/説法
鶴林山地蔵院/説法 posted by (C)鳶眼

鶴林山地蔵院/説法
鶴林山地蔵院/説法 posted by (C)鳶眼


やすらぎ苑

鶴林山地蔵院/やすらぎ苑
鶴林山地蔵院/やすらぎ苑 posted by (C)鳶眼

鶴林山地蔵院/やすらぎ苑
鶴林山地蔵院/やすらぎ苑 posted by (C)鳶眼

鶴林山地蔵院/やすらぎ苑
鶴林山地蔵院/やすらぎ苑 posted by (C)鳶眼