M-1グランプリ準々決勝のネタを多分ぜんぶ観た 1/2 | コードチェンジのために

コードチェンジのために

好かれたいけど媚びたくないまだ考えているノート

M-1グランプリ準々決勝のネタを多分ぜんぶ観た。なんなら2回戦もほぼ観たと思う。一部聴いただけで済ませたものもあるが…。思えば漫才をこうもちゃんと注目して観るのは初めてのことかもしれない。

「これは!」というセンスを感じるフレーズや流れもあって、そのメモもあるのだが、ちょっとそういう個別の話とは違った切り口で思ったことを書いておく。

 

1.双子のユーモアとシェイクスピア

2.自作自演の漫才師/シンガーソングライターと、分業制

 

 

1.双子のユーモアとシェイクスピア

 

何組か、一卵性双生児の漫才師が出てきていた。具体的なコンビ名は忘れてしまったが…。面白いもので、双子であることを売りにしたり、ネタに組み入れているコンビもあれば、双子であることを一切武器としていない(ように見える)コンビもあった。双子漫才師である以上、演者は常に双子だが、ネタは双子的な内容であるとは限らない。

双子の演じるユーモアと言えば、シェイクスピアの『十二夜』や『間違いの喜劇』が思い付く。台本上、一組ないし二組の双子が登場する劇なのだが、実際に出演する俳優は、本物の双子とは限らない。俳優が本物の双子でなくても、双子の登場人物が出てくる演劇は成立する。だが漫才の場合はどうか?双子ネタを組み込んだ漫才の台本を、双子漫才師ではない漫才師が上演することは、現実的に難しいのではないか?

 

双子の登場する台本の上演が、演劇で可能であるのに対し、漫才では一見不可能に思われる。

この理由は、もう少し考えてみてもいいかもしれない。コント、ないし漫才コントなら、部分的に可能なのかもしれないと思う。

 

双子が生み出すユーモアや示唆性について、ひょっとして双子漫才師はシェイクスピアやアゴタ・クリストフ『悪童日記』などに触れてみたりしているのだろうか、とも少し考える。