紙/キャンバスに絵を描くというムーブメントと、画家の独立 | コードチェンジのために

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好かれたいけど媚びたくないまだ考えているノート

私は、絵と言えば紙/キャンバスに描かれるもの、という常識的なイメージを持っている。ということに最近になって気が付いた。

 

ここからは上記の気付きからの思い付きである。

元々絵とは、特に紙/キャンバスに描かれるものではなかった。紙やキャンバス(画布)といったものよりも、絵画自体の方が先にあったはずである。最初は洞窟や岸壁の壁画/天井画だったろう。あるいは地上絵や砂絵だったかもしれないし、人体の皮膚に呪いとして描いたのが原初かもしれない。その後、建築技術の発達に伴ってその建物の壁画や天井画、柱画として絵画が描かれ、あるいは工芸品の一部に絵画が描かれるということもあったろう。私がイメージする「紙/キャンバスに描く」というのは多分、この流れの中のどこかで生じたフォーマットなのだと思う。

 

紙/キャンバスに絵を描くというのは、たぶん空前絶後の普及を果たしたと思う。少なくとも現代に生きる私が、「絵を描く」と言えばただちに「紙/キャンバスに描く」ものだと連想するほどに。紙/キャンバスを媒体とする絵画作品も、ずいぶん多く制作されたろう。

 

いくつか博物館を巡ってみて、厨子の内扉に描かれた絵画や、障子や屏風に描かれた絵画、建造物の壁画を見ていたら、絵画はそれ自体として存在しているのではなく、あくまで全体の一部であって、絵画を含めた工芸品/建造物を総合的に観るのが筋であるような気がしてきた。それらは、複数人の専門家が協力して完成させた総合的な芸術作品だと思う。このことは、特に厨子入りの仏像を見ていて強く思った(そもそも仏像は芸術作品か?という疑問はあるが)。

 

だが紙/キャンバスに描かれた絵画は、多くの場合独立しており、ポータブルである(もちろん特定の教会等に飾ることを目的に計算して描かれた作品もあるが)。そして一般的に、一人の画家の手によって成る。たぶん。紙/キャンバスに描くというフォーマットが普及する前は、画家はきっと、何らかの作品/制作物の一部分(例えば厨子の内扉の絵)を担当する専門職であったろう。となれば、画家による表現は総指揮/総監督のコントロール下に置かれることになるし、そもそも描くスペースも題材も指定されることも珍しくないだろう。それが、紙/キャンバスに描くというフォーマットの確立によって、絵画作品が独立することになるし、画家も独立独歩で作品制作に臨む道が開ける。

「紙/キャンバスに描く」というのは一見すると不自由なことのように思えるが、むしろ実はこのフォーマットの普及によって画家は独立独歩で絵画を描くという自由を得たのではないか。そしてそのことが、あるいは「紙/キャンバスに描く」というフォーマットが普及し、今もそんなに衰えていない理由の一つなのではないか。

 

他方、「もう紙/キャンバスに描かなくてもよくない?」というムーブメントもありそう。何に描くか、という点も、画家の裁量によるのだから。そうすると、彫刻や塑像、工芸品に絵画的装飾を施すということは、もう少し見直されていもいいのかもしれない。少なくとも私は、厨子というものを見ていてそう思った。

 

なんかまとまらんな。