それは風の強い日だった。
僕は海辺に一人で座って、波が揺れる様をずっと眺めていた。少し長くなった髪が、風にあおられ乱れきっていた。全身が、潮の香りに包まれているかのようだ。
ふと、自分の足首に何かが貼りついてきた。何かしらが書かれた紙であるそれを取ると、左の方から声をかけられた。
「すみません、風で飛んじゃって」
顔を上げると、走ってきたふうの若い男が立っていた。自分と同い年ぐらいだろうか。
「いいえ、どうぞ」
「ありがとうございます」
実に単調な会話だった。こんな会話なら、日常よくあることだ。しかし違ったのは、紙を受け取った相手が、すぐに立ち去らなかったこと。僕は疑問に思い、もう一度彼を見上げた。
何故まだいるのかを問おうとしたが、その前に彼が、ぽつんと言った。
「俺もここ、好きなんですよ」
僕に向けて言ったのだろうが、視線はずっと先の海の水平線に据えたままだった。太陽はいつしか傾き、いよいよ海に沈もうとしている。彼は全てが赤く染まっていた。
「前もここにいましたよね?」
視線が僕に戻ってきた。にこやかな表情は人懐っこさを覚える。
一度見たら印象に残りそうな顔だ。しかし僕は、彼を知らない。見たこともない。
「会ったこと、ありましたっけ?」
「いいや、俺が遠目に見ていただけです。俺の好きな場所にずっといたんで、あの人もここが好きなのかなぁって」
そう、か。
普通なら、海辺にずっと座って波を見つめ、風に好きなように吹かれている男など、みな素通りしていくものだ。
「隣り、いいですか?」
「ああ、まぁ」
僕がそういうと、彼は左隣りに、少し間を置いて腰掛けた。この距離は心地良い。
それから何か会話が始まるのかと思いきや、ただ隣りにいるだけで、ひたすらに海を見つめていた。
太陽は少しずつ海に身を隠し、とうとう最後の赤い光を残して消えていった。途端に、重い青黒い空が襲ってくる。これから夜が始まる。
そうして徐々に暗くなる視界のなか、やはり彼は喋るでもなく、風に吹かれていた。それは僕も同様だ。
やがて星がちらつき始めた頃、彼は唐突に立ち上がった。自分ももうそろそろ行こうとしていたので、少しびっくりした。
「じゃ、俺、行きますね」
「あぁ」
「ありがとうございました」
最初と同じように礼を言って、彼は軽快に浜辺を去っていった。暗い闇夜で、すぐに彼はどこかへ消えた。
ここへ来た理由も、隣りに座った理由も、何もかもわからなかった。ただこの場所が好きだと言う彼に、好感を覚えた。
それから毎日のように彼に会った。ここに来れば、自然と会えてしまうからだ。
二人並んで海辺に座り、他愛もない会話をした。相変わらず強い風は、笑い声まで遠くに運んだ。水平線の先まで届くような気がした。
名前や身分など関係なかった。僕らの好きな、この場所が全てだった。
月日が経った頃、彼に会う回数が減っていった。海辺に1人で過ごす日々が続いた。
以前はずっとそうだったのに、今はどこか寂しい。
「お久しぶり」
彼はいつからか、そう言って隣りに座るようになった。ただ僕は聞かない。なぜ来れない日が続くのか、聞く必要はなかった。
そしてまた、なんでもない話をする。
「知ってる?世界には、赤い海があるんだって」
「赤い?」
「そう。その海の中では、太陽の光も全然届かないから、深海魚だって浅いところにいるんだって」
「へぇ。世界にはまだまだ不思議なことがあるんだね」
「うん。すごいよ」
そう言った彼は、何度も深く頷いて、そしてぱっと顔を上げた。
「決めた」
「え?」
「俺、いつかその海を見に行く」
真っ直ぐ前を向いて、意志の堅い表情で言った。と思ったらそれを崩し、やわらかい笑顔で僕に振り向いた。
「これ、俺の夢宣言ね」
「夢かぁ…。僕はそんな、大きな夢を描いたことないなぁ」
そう、僕は、大きな夢を宣言してしまう彼に、憧れに近い感情を抱いていた。
僕は、何もかも出来ないと諦めてばかりの人間だから。
「じゃあ、今、なにか夢を宣言してみたら?」
思考の海に沈む僕を救い上げるように、彼は言った。
「大きくなくても、小さいささやかな夢でも。最初はそこからだよ」
「ささやかな…」
うん、と頷いた彼は、答えを即す様子もなく、また海の方を見やった。僕も同じようにする。
いつの間にか太陽は消えていた。あとは空が闇を覆うのを待つばかりだ。
彼との別れの時間が迫ってくる。
「僕は、」
「ん?」
「君といつまでも、こうして一緒に海を眺めていたいな」
素直に、思ったことを口にした。そんな何でもないような行為が、こんなにも清々しい気持ちにさせるものだとは思わなかった。
僕は照れ隠しに、言葉を少し付け足す。
「本当にささやかな夢、だけどね」
「いや、いい夢だよ…ささやかだけど、大きい夢だよ」
彼は、心に向けて喋るかのように、目を閉じて優しく言った。
「俺もその夢、もらっていい?」
「ええ?まぁ、いいけど‥」
「よし、じゃあ二人の夢だね!」
ぱっと笑う彼につられるように、僕も思わず笑った。月が輝きだした夜に、僕たちの笑い声が響いた。
その日僕は、いつものように海辺にいなかった。
遅れてしまったことと、また最近彼に会うことが少なくなった所為で、僕は機嫌を損ねていた。足取りは少し重い。
もうすぐ日は落ちる。彼があの場所にいる保証もない。着いて誰もいない海辺を確認するだけかもしれない。なのに、それでもわずかな希望を持って、僕の足はそこへ向かってしまう。
いつからだろう、僕が海辺に行く理由は変わってしまっていた。
思考を巡らせているうちに、あの場所が見えてきた。やはり既に太陽は海に沈んでしまって、辺りは暗くなっていた。珍しく、風が止んでいた。
そんな暗いなか、人影が二つ見えた。
一つは見覚えがある、彼だ。もう一つはわからないが、女性のようだ。二人はいつもの海辺で、座らずに立ったまま、何か言い合っていた。
僕はどうすべきか迷って、とりあえず歩みを止めてその様子を遠くから見ることにした。彼らはしきりに何かを叫び合っているが、よくは聞き取れない。
見ていると、女性が彼をどこかへ連れていこうとしているのを、彼が振り払っているようだった。彼はよろよろと、どことなく力ない。
ふと気づくと、闇からもう二人出てきた。男性らしいその人たちは、抵抗する彼を抑えてあの場所から引き離した。
その時、彼の悲痛な叫びが聞こえてきた。
「彼が!彼がまだ…っ!!」
僕の足は瞬時に海辺へ駆け出していた。彼はもしかして、連れ出されそうになりながらも僕をずっと待っていたのではないだろうか。
砂浜に足を取られながらも必死に走ったが、僕が着いた頃には彼の姿は消えていた。
残っていたのは、踏み荒らされたいつもの場所。
彼は僕を待っていたんだ。それなのに僕は…。
申し訳ない気持ちではち切れそうで、胸が痛んだ。何か、伝えたいことがあったのかもしれないのに。
今度会った時には謝ろう。そのためにも、遅れたりしないようにしよう。僕は誓った。
それから2週間は経った。
あれから毎日来ているが、彼は一度も現れなかった。2週間も来ないなんてなかったはずだ。
いつもの水平線を見ても、打ち寄せる波を見ても、考えるのは彼のことばかりだった。彼との他愛もない会話、彼の屈託のない笑顔、居心地の良さ。
強い風がなにかしらを揺らせて伝える音が、彼がここへきた音ではないかと思い、何度も振り向いた。
僕は待ち続けていた。彼の、「お久しぶり」という言葉を。
あれからどれくらいの月日が経っただろう。
僕は相も変わらず海辺に一人で座って、波が揺れる様をずっと眺めていた。短く切った髪が、それでもここの風にあおられ乱れきっていた。
以前と同じように一人になったが、以前と違うのは、今の僕は彼を待っている身だということ。
風の音に振り返ることはもうやめた。ここにいる限り、彼にはまた会える。いるだけでいいんだ。
また思考の渦の中にいた僕を、呼び戻す声が聞こえた。しかしそれは、彼ではないことは確実だった。
「すみません」
女性の声だった。振り向いて見上げると、華奢で髪の長い、可愛らしい女性が立っていた。
「もしかしてあなたが、『彼』でしょうか」
瞬時には僕は言われたことを理解できなかった。その通りの顔をしていたのだろう、僕を見て、彼女は言葉を続けた。
「急にすみません。あの、ここへよく来ていた、あなたと同い年くらいの男性をご存じですか?」
「あ…はい」
僕は条件反射で、素っ気ない返事をしてしまった。しかしすぐに思い返した。もしかしてこの人は彼を知っていて、僕と同じように彼を探しているのかもしれない。
「あっ…いや、知ってるというか、名前も何もわかりませんが、よくここに一緒に座って、海を眺めていました。最近は、顔を見ません」
僕がそう言うと、暗かった彼女の表情が一瞬、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
「そうですか。ここに、一緒に座って…。私も座っていいですか?」
「ええ、どうぞ。彼はいつも、その辺りでした」
僕が指差した方を確認して、彼女はそこへ腰を下ろした。真っ直ぐ海を見つめて、まるで彼がしていたことを追っているかのようだった。
「あの人、あなたの話ばかりしていました」
「…え?僕の、ですか?」
「ええ。『俺と同じ場所が好きな人に出会った』って。あの人はいつも『あの場所に行ってくる』って、嬉しそうに言っていました」
彼女は、悲しそうな顔をして言った。その理由がわからず、僕は問うた。
「彼は…いま、どうしてるんですか?」
彼女はその言葉にはっとこちらを見て、すぐに海へ視線を戻した。そうして下を向いた。
少し間を置いて、彼女は言った。
「あの人は‥‥」
そしてまた一呼吸置く。僕は瞬時に、その続きを聞きたくない衝動にかられた。
「…亡くなりました」
彼女はほぼ泣いていた。それでもはっきり聞き取れたその言葉に、金づちで頭をがつんと殴られたようだった。
彼は‥‥‥死んだ?
ハンカチを顔に押しあてた彼女が、ぽつぽつと喋りだした。
「ちょうど一ヵ月前です。ようやく落ち着いたので、彼のよく言っていたこの場所に来てみたくなって。私は彼の婚約者だったんです」
その後の彼女の話は、断片的にしか覚えていない。何故なら、僕の頭はすでにショートしていて、あまり頭に入ってこなかったからだ。
そんな心此処に在らずな僕にも、彼女は切々と彼のことを語ってくれた。
彼が持病を患っていてずっと入院している身であったこと、それでも大好きな海辺には許可を得て来ていたこと、そして、もう長くもない命に嫌気がさして遺書を書きに海辺に来た際、僕と初めて会話をしたこと。
――僕の足に貼り付いてきたあの紙は、遺書だったのか。
その日、彼はその紙に筆を進めた様子はなかった。僕は、彼の絶望を少しでも緩和出来ていたのだろうか。今になっては誰にもわからないが。
ただ、彼女は言ってくれた。
「海辺であなたに会うようになって、彼はそれまでとは別人のように、生を楽しんでいました。表情も豊かになって、死期も延びたように……私は感じました」
会った時の暗い顔からは想像できないくらい、彼女の顔も花が咲いたように笑みがこぼれていた。彼が愛した笑顔なんだろう。そう思うと胸が苦しくなった。
「そういえば以前、『二人だけの夢の話もしたんだよ』って、嬉しそうに話してきたことがありました。そのときは正直、あなたがとても羨ましく感じたものです」
そう言って彼女は笑う。しかしその直後、その笑みは消え焦った顔になった。僕が、突然大泣きしだしたからだ。
僕は、人目もはばからずただただ声を上げて泣いた。彼女は静かに横に居た。いつもと同じ強い風が、僕の泣き声を遠くへ運んだ。
その日からひと月が過ぎた。僕はまた、相も変わらず海辺に居た。
時は夕刻、視界は赤く染まり、少し気の早い月がすでに空に浮かんでいた。
「実は僕、死のうと思っていたんだよ」
僕は呟く。まるで、隣りに彼がいるかのように。彼なら、はっとした顔をして、でも遮らずに続きをただ聞いてくれただろう。
「まあ、毎日海辺に来て何もせずそのまま帰る人間なんて、ろくでもない奴に決まってるよね」
ふふっと自嘲気味に笑う。それでも彼は何も言わず、僕の方を静かに見つめている。
「僕はもう生きるのが嫌になったんだ。何をしても駄目で。それで、大好きな風景を最期に見てから、人生を終えようって。でも、いつも死ねなかった。死ぬ勇気さえ僕にはなかった。どこまでも駄目な人間だった。そんな時に、君と出会った」
思えば俺たちは、同じような心境でここにいたんだ。そう思うと、なにか運命的なものを感じないか?彼ならもしかしたらそんなことを言ったかもしれない。
「僕が君との他愛もない会話にどれだけ癒されていたことか。どれだけ君と会うことが嬉しかったか。生きることに絶望していた僕が、まだまだ生きたい、君と何度でも会いたいと思えたんだ。そうしたら、生に貪欲になって定職にも就いた。君には、感謝してもし尽くせないよ」
ただ、その後自分の環境の変化の所為もあり、海辺に来づらくなった。日々の慌ただしさにかまけて、自分の好きなものが優先できなくなっていた。それも仕方ないと思いつつあった。
そんな折、彼が闇夜に僕を呼ぶ光景を見た。ひどく後悔した。
「あの時は、本当にごめん。それからは反省して、毎日来るようにしたんだけど、何の償いにもならないよね」
そんな、気にしないで。彼の声が風に乗って聞こえてくる気がする。今日の風は心なしか、穏やかだ。
「君が亡くなったと聞いてから、僕は仕事に行けなくなった。涙が枯れるぐらい泣いた。大好きなこの海辺に来れば心もおさまるかと思ったけど、逆効果だったよ。君が来ない現実を突きつけられるようで」
そう、現実から逃げていた。君が居なくなった現実から。君が居なくなったことを悲しむ気持ちが、時とともにどんどん風化してしまいそうで。君を忘れたくなくて。
そんな想いを伝えると、君は優しく微笑むんだ。こんな僕の言葉に喜んでくれるのかい。こんな僕の、どうしようもない気持ちに。
「――でもね、思い出したんだよ。君との夢の話を」
君は、世界のどこかにある赤い海を見に行くことが夢だと宣言した。あのときの君は、本当に輝いていた。
「僕、君の夢を貰っていいかな。赤い海を見に行く夢。二人の夢は叶えられなかったけど、君の夢は、僕が叶えたいと思って」
そう思ったら、ふせっていた自分はどこへやら、また仕事に奮闘する日々に僕は戻った。
「なぜなら、お金がいるからね」
僕が笑うと、彼も笑った。
「いつか、必ず叶えるから。期待していてよ。どれだけ夢に近づいたかは、またここに来て伝えるね。僕と君の、大好きなこの場所に」
僕の頬を、撫でるように風が吹く。このいつになく穏やかな風も、君に届いているだろうか。
君にさよならは言えなかったけれど、今となっては言えなくてよかったのかもしれない。僕はまだまだ、君と一緒に生きていくのだから。
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this story was inspired by the song i love "a lull in the wind" by acid android.
please, you listen too for further understanding of this story.
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05092016