秩父困民党を訪ねて2 | 折々

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日々感じたこと

 今日は皆野のオンダシ河原から出発です。ここは風布村から出発した先遣隊が警官隊と遭遇し数人が逮捕された河原です。今は長瀞川下りの出発点になっています。前回は風布村を訪問しているので、今回は三沢村をに向かいました。 

 

オンダシ河原

 

 谷沿いの道をしばらく上ると道の左手上にお墓が見えます。ここが三沢村困民党組織者の女部田梅吉のお墓でした。

  

女部田家の墓 左が梅吉の墓

 

 その後三沢村小隊長の萩原勘次郎の墓を探しました。五十新田という地名の所が判りません。細い急な道をかなり上った所に萩原家の墓地を見つけました。しかし勘次郎の墓かどうか確認できませんでした。勘次郎は信州北相木村の自由党と連絡し困民党に結びつけた人物です。事件後は逮捕され獄死しています。

 

萩原家の墓地

 

墓地から見た三沢村

 

養蚕農家の佇まい 二階が蚕部屋のようです

 

 皆野本陣解体後、大野苗吉が率いたと思われる三百人ほどの一隊が、児玉に向かい本庄駅まで鉄路で送られてきた鎮台兵の大隊と遭遇し闘いとなった金屋に向かいました。 

 ここは鋳物師の多く住む地とし有名でしたが、ここの円通寺というお寺の近くで衝突したのです。銃撃戦は困民党兵の火縄銃と鎮台兵の村田銃では大きな開きがあり、困民党軍は短時間で掃討されてしまいました。困民党軍の戦死者は6名でした。

 

仮病院のあった円通寺には秩父事件死者の墓が建てられている

 

円通寺裏の両軍が衝突した場所

 

 皆野から金屋に向かう途中の野上村総持寺には、野上村の中心的人物の坂上健作、島田清三、島田幸右衛門の墓があると言うことだが確認できませんでした。

 

総持寺

 

 日が傾いてきて、少々慌てて十石峠を目指すことにしました。土坂峠を越え万場町に出て神流川沿いに十石峠を目指しました。しかしあとわずかという黒川という所まで来ると十石峠は道の崩落で通行止めとの表示、仕方なく別の道を通って南牧村を目指しましたが、これでは日のある内に馬流れに着きそうも無くなり引き返すことになりました。秩父から馬流れの道の厳しさと遠さを実感しました。

 また来年に困民党を訪ねる旅を計画することにします。

 

紅葉の高反山