秩父困民党を訪ねて1 | 折々

折々

日々感じたこと

 1泊で秩父から長野に抜ける計画をしました。

 圏央道から関越に出て、小川町を抜け粥仁田峠へ、紅葉のピークと言った感じです。

 粥仁田峠は落合寅一率いる秩父困民党軍が、小川に抜けようとして鎮台兵・警官隊と闘った所です。頂上には牧場があり東に関東平野、西に秩父盆地を望む展望の良いと所でした。だいぶ前に現役の人たちとハイキングに来ました。

 

三沢部落から見た粥仁田峠山麓の部落 山にへばりつくように農家が点在する

 

粥仁田峠から小川方面を望む 観音山が見えている

 

城峰山と御荷鉾山(奥)

 

粥仁田峠の牧場から上州方面を望む

 

 この日は小鹿野の宿に泊まりました。

小鹿野の古い家並み

 

 小鹿野町は当時の政治経済の中心地で椋神社を出発して小鹿神社に野営した困民党軍は、高利貸しを襲撃し一部を破壊炎上させている。また各戸長役場を襲って借金の証拠を無くすため公証割り印簿を焼きその後大宮郷(秩父市街)に向けて進軍した。高利貸しも悪徳高利貸しと言われた者とそうで無いものをわけて行動している。

 

 夜街を歩きましたが、明治には三軒の映画館があったと記されており、近郊からの客ですごく賑わッた様子がうかがわれました。前回来た時に泊まった寿屋(本陣の跡)は営業を数年前に止めており、今は観光交流館になっていました。 

 

小鹿野町観光交流館

 

 秩父困民党事件は秩父の農民が1884年(明治17年)10月に蜂起したものです。当時は松方デフレと言われる緊縮財政の結果、繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落し、農村の窮乏を招いていました。このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却して都市に流入し労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりしました。一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が地主や高利貸しへと集積されていったのです。秩父の農民もこの事態から逃れることはできませんでした。秩父の困民党が組織された地域は山の斜面にへばりつくように畑が作られているのが行ってみて良くわかります。田んぼはごくわずかしか無く、畑も地味が貧しい地帯です。

 明治維新前後に富国強兵を目指す政府が外貨獲得のために生糸の生産を奨励、生糸や絹織物の輸出が盛んになる中で、秩父でもこうした傾斜地の畑の多くがで桑の栽培と生糸の生産に偏った農業へと転換していったのです。

 この地をおそった松方デフレの結果の繭単価下落は農民を直撃、多くの農民が借金を返せず身代限り(自分が生きている限りは畑を耕すことができるが、子孫には継ぐことができない)となってしまいました。この事態を見るに見かねて、村の富裕層である知識層のかなりの人たちが自由党に加盟し、農民を組織し借金返済延期の請願運動を起こしました。これが困民党です。しかし警察と裁判所に阻まれ多くは成果を上げることができませんでした。やがて運動は政権の妥当へと向かって行くことになります。こうして起こったのが秩父事件でした。「天朝様に敵対するから加勢せよ」と呼ばわって、農民を組織した困民党幹部の呼びかけにその意気込みがうかがわれます。