美しい と かっこいい の違い
負のデザイン、今日読んだところに、「美しい」と「かっこいい」の違いについて書いてある箇所がありました。
私たちはあんまり「美しい」という言葉を普段使わないけど、「かっこいい」というのは割と気軽に口にする。それはなぜか。著者の森本さんの分析では、「かっこいい」には他人の目を組み入れた美の評価があり、自分だけが納得して満足する「美しさ」では心もとないのではないか、ということでした。うーん。すごく納得です。
話し言葉の中で、○○みたいな? といちいち反応を確認する態度をとったり、○○ですよね? と共感を求めたりすることと、たぶん同じなのではないかなと思います。要するに、相手と私は同じだよ、世間と私は同じだよというところに一所懸命拠りどころを求めているのだと思うんです。
だから、自信を持って「これは美しい」とはなかなか言えない。誰もが認めるものであったり、一部のマニアというかひと固まりの仲間内であっても、その道の人なら必ず認める「かっこよさ」の方を優先したくなります。
広告屋はそこを突く。
と森本さんは書いています。人から見てどうか、かっこいいか、そういう弱さを突くんですね。拠り所が自分の外側にあるから、人は必死になって流行を追いかけます。そうやって消費生活が回ってきたわけですけど・・。なんだか空しいなと思います。
デザインする側も、見飽きた流行の焼き直しをせっせとしています。それが美しいと思えなくても面白いと思えなくても、安全パイというか、それならばとりあえず失敗はないから、という理由で。
でも、やっぱりもっと自信を持って、自分が美しいと感じるものを美しいと言いたいなと思います。そして本当に自分が美しいと思えるものや行為を、デザインの仕事と関連付けて行けたら素晴らしいと思います。
負のデザイン
自然食品のお店の本棚に、気になる本をみつけました。94年出版の本で、ずっと棚にあったのでしょう、だいぶ表紙が焼けています。ぱらぱら読んで手放せなくなりました。
負のデザイン 森本武 著
JDCの本です。
まだまだ読むのはこれからなのですが・・。
これもあれも、と多くのことを足して足してそれでぜんぜん豊かな気持ちにならないというのは、もう今の時代そこここで言われていますよね。最低限必要なものを残して、あれば便利というレベルのものは手放していくと、却って気持ちがすっきりと清々しくなります。
この本は、どんどん生産して拡大路線でいくのではなく、逆に縮小することで生命の本性の中に豊かさを見出していくということを語っているようです。
私は、保険商品の販促物の制作に関わっていたりしますが、紙面にぎっしりと詰め込む文字の量に苦しくなることがあります。それから刷り上がりのものが台車に山と積まれているのをみると、ああ、ゴミがこんなにいっぱい・・と悲しくなることがあります。
情報をぎっしり詰め込んで、ばらまく。これはデザインという行為なのでしょうか。 なんて思うこともしばしば。でも、売るためのツールとしてデザインがあるならばしかたがないのかな。
ちょっとデザインという行為そのものについて、じっくり考えてみたくなりました。
