夢の後処理 -ユメクイ- 【後編】 | ぼくはきっと魔法を使う

ぼくはきっと魔法を使う

半分創作、半分事実。
幼い頃の想い出を基に、簡単な物語を書きます。
ちょっと不思議な、
ありそうで、なさそうな、そんな。

 おれたちの仕事が終わるのは、白々と夜が明け始める午前五時過ぎだ。泉水さんと別れたおれは、いつものように自動販売機で缶コーヒーを買い、家に向かってゆらゆらと歩いていた。昔は眠気覚ましに飲んでいた缶コーヒーも、今では必要はない。けれども今でもこうして飲み続けているのは、つまりはただ習慣なのだ。

「五時か…」

 缶コーヒーをすすりながら呟いた。ちょうどジョーが眼を覚ます頃だろうか。居酒屋で例の話を聞いてから一か月。そういえば、あの日以来ジョーからの連絡はなく、おれも自分自身の忙しさに紛れていた。今から電話でもしてやろうかとも思ったが、やめた。今日はぐっすりと眠れているかもしれない。

 おれはジョーの仕事が終わるであろう頃合いを見計らって電話をかけてみようと考えた。自宅に戻り定位置に座ってテレビをつけた。それからベランダの植物に水をやり、洗濯物を取り込み。いつもと何ら変わりなく行動しているだけだった。しかし、次第に妙な胸騒ぎが沸々と湧きあがってきたのだ。結局おれはその胸騒ぎに耐えられず、昼過ぎにジョーに電話をかけた。

「あっ」

 おれは声を漏らした。

 電話から聴こえてきた声は、男のものではなかった。一瞬、例の恋人かとも思ったが、その声は声質とかではなくずっと落ち着いていて、歳を重ねているように感じた。声の主は、母親と名乗った。

 なんてこった。

 おれは右手で前髪を掴み、しばらくの間、黙って電話の向こうから聞こえる声に耳を澄ましていた。

 そして電話を一度切ると、すぐさま泉水さんに電話をかけた。その晩の仕事を休むことを告げた。おれはろくに準備もせず特急列車に飛び乗り、三時間かけてジョーの実家へと向かった。





 モデルハウスのような洒落た屋敷に到着したのは夕暮れ時だった。大物芸能人が亡くなったのかと思わせるような人の多さに驚いたのはいうまでもない。ジョーの人徳のなせる技だろう。

 ジョーが亡くなったのは、ほんの数日前だった。

 転んで地面に頭を打ち倒れていたところを発見された。発見されたときには意識があった。しかし打ちどころが悪かったらしく、不幸にも病院に運ばれている途中で亡くなってしまったという。

 両親もジョーの睡眠障害は知っていたらしい。きっと亡くなったときも寝不足で低血圧な頭でふらふらと歩いていたのだろう。

 通夜の席におれの知っている人はいなかった。おれはビールを飲む気にもなれず、注がれっぱなしのビールを片手に握りしめたまま一人座っていた。

 ふと、広い部屋を見渡すと、隅に髪の短い女性が座っていることに気が付いた。なぜ今まで気が付かなかったのか。簡単なことだった。彼女一人に男たちが群がっていたのだ。女性はそれだけ魅力的だった。

 おれは彼女の向かいの席に座った。

「ジョーの恋人ですか」

 彼女は驚き、目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、「はい」といって頷いた。

 ユメクイは、聞いていた通りの美しい女性だった。

 目は大きく透き通っていて、丸い鼻やふっくらとした上唇には愛嬌がある。化粧をしているのだろうが薄く、短く切り揃えられたショートカットが彼女の清潔感をさらにかき立てていた。

「ジョーはきみのことが大好きでした」

「ありがとうございます」

 おれにはユメクイの目を見つめることが困難で、まだ耳もとで揺れていた黒いピアスを見ながら話をすることにした。

「彼は一番懐いてくれた会社の後輩なんです。
 まるで小型犬のように懐いてくれて」

「なんとなく、わかる気がします」

「転んで頭を打ってそのまま亡くなるなんて、彼らしいというか」

「確かに。
 不謹慎ですが、わかります」

「早朝覚醒について知っていましたか」

「早朝覚醒?」

 ユメクイは首を横に振った。

「朝異様に早く目が覚めてしまう、睡眠障害の一種です」

「睡眠障害…」

「夜もなかなか寝付けなかったらしいです。
 ジョー、いや、彼は日常的に睡眠不足だったようで、おそらく亡くなったその日も頭痛や低血圧でふらふらだったのではないかと思っています」

「私のせいかもしれません」

 しばらくの沈黙のあと、ユメクイが口を開いた。

「わたし、仕事が遅くまであって、彼に連絡するのいつも日付が変わってからだったんです。
 それでも、夜中でも朝方でもいつでも彼は返信をくれるし、電話にも出てくれました。
 それと…」

 少し迷って彼女は続けた。


「彼と何度か一緒に寝たことがあるんですけど、いえ、実はそういうことには一度もなったことなくて、ただ一緒のベッドで寝ただけなんです。
 それで、そのときの彼、いつも眠れていなかったみたいで。
 朝起きると、もう、げっそりなんです、驚くほど。
 心配して訊いてみてみたんですけど、大丈夫だって。
 でも、大丈夫じゃなかったんですね、彼」

「ええ」


 おれは、なんとなくジョーの気持ちがわかったような気がした。ユメクイにとってジョーはただの恋人だったが、彼にとってユメクイは八年間想い続けた、憧れの人だった。憧れの人ゆえ、そう簡単に男女の関係にも慣れなかったし、ましてや憧れの人と同じベッドで、すぐ隣で寝息を聞きながら眠るなんて、彼にはとてもできなかったのだ。しかも、こんな美人ときたら。

 そして、普段は眠れないのではなくて、彼は夜遅くまで彼女からの連絡を待っていたのだ。彼なりに必死だったのかもしれない。せっかく掴んだ幸せをそう簡単には離すまいと、彼女の想いに応えようと、彼女からの連絡を待ち続けた。
 どんだけ好きだったんだよ、お前は。
 ユメクイだぜ。
 お前のその想い、彼女にちゃんと伝わっていたのかい?


「あのう。
 こんなこと訊くのはあれなんですけど」

「なんでしょう」

「あなたは、ジョーのことを好きでしたか」

「わたしは…」


 なぜそんなことを訊いてしまったのか、わからない。興味本位だったのかもしれない。ただ、ジョーがユメクイの話をしていたときのあの嬉々とした雰囲気と、ユメクイがジョーの話をしているこの雰囲気に、差を感じたのは確かだ。

 おれは、ユメクイと対峙したこのほんの数分の間に、ある事実を理解していた。

 ユメクイは皿の上の食べかけの何かをじいっと眺めていた。随分長い時間待ったような気がした。


「わたしは、人を好きになったことはありません」


 掛け時計が八時を指していた。今出れば電車に間に合うと思った。


「ジョーのこと、あなたを好きなまま死んでいったジョーのことを、なるべく長い間覚えておいてあげてください。
 せめて時々、ふと思い出してやってください」


 おれは立ち上がり、一礼してからユメクイの前から立ち去った。

 ユメクイは悲しげでもあり、寂しげでもある、その表情のまま固まっていた。





 ジョーの母親に挨拶し、おれは通夜の会場を後にした。おれの暮らす街にはない妙に蒸し暑い空気に包まれながら駅に向かった。途中、泉水さんに電話をかけた。今日の仕事に間に合いそうだと告げると、泉水さんは「そうか」と一言だけ返した。おれはそれになぜかほっとしたのだった。