「最近、眠れないんっすよ」
おれが注いでやったビールをぼんやりと眺めながら、西条(にしじょう)は呟いた。彼はようやく吐き出したその言葉の分だけ軽くビールをあおり、きゅうりの漬物に手を付けた。
「眠れないって?
全く?」
おれも彼に続いてきゅうりの漬物を頬張った。確かな歯ごたえとともに、しんみりと唐辛子の刺激が口の中に広がった。
「そうですねえ、朝方まで全く眠れない夜もあります。
でも一番辛いのは、眠りが浅くて何度も目が覚めたり、朝ものすごく早く目が覚めたりすることなんです。
全然疲れが取れないんですよ」
「ジョー、お前そんな繊細なやつだったっけ」
おれは彼のことを「ジョー」と呼んでいる。名字の西条から西を取って「条」だ。
「ワカさん、それ、失礼っすよ」
ジョーはおれのことを「ワカさん」と呼ぶ。若月から月を取って「若」だ。
「ジョー。
その朝早くに目が覚めるって、もう一度寝ようとしても眠れないだろ」
「大抵は眠れるんですけどね。
そういうときもあります」
「それ、早朝覚醒かも」
「覚醒?」
「起きたい時間よりも早く目が覚めてしまう、不眠症の一種らしい」
「なるほど。
上手く眠れないと、それだけでもストレスになりますし…」
「そういう意識してないところで、何か精神的なストレスを溜め込んでるのかもな」
「なんか…」
「なんだ」
「いや、」
ジョーは何かをいいかけて首を捻った。おれは椅子に深く座り直して、仕事の悩みで眠れないのか、と訊いてみた。彼にそう訊ねたのは、おれ自身の経験からだ。
○
おれが、怒られたり、仕事で失敗したりする夢を観るようになったのは、入社して間もなくだ。とにかく上司と馬が合わず、無鉄砲でずぼらな性格のおれは、きっちりとした性格のその上司から注意を受ける毎日だった。決して理不尽なことをいわれるわけではないのだが、何というかその上司、ルールに固執し過ぎて融通が利かなすぎたのだ。
ある日、その上司に電話をかけた。入社して半年後、おれは業務応援として他部署にて仕事に励んでいた。新入社員研修を終え、職場に配属されて間もなく他部署に応援とは、一体全体どういう人事なのだといささか疑問だったが、命令ならば仕方がない。
「本日残業します」
この日、応援職場で残業を依頼された、本来の職場では、残業するときには上司の許可を得なければならなかった。そのための電話だった。
「なぜですか」
明らかに不機嫌な声だった。かれはこの時点でプレッシャーをかけてくる。おれは残業理由を説明した。
「それは今日やる必要があるのか」
その日はノー残業デーだったのだ。定時に仕事を終わらせられるよう調整しましょう。そして、早く帰りましょうというという日だ。しかし、他方から業務応援者を募るような部署だ。ノー残業デーなんてくそくらえ。仕事が追い付かん、といった状況。
「ノー残業デーは早く帰ろうぜ」
あくまでも業務応援であって、おれの勤怠の決定権は本来の職場上司である彼にあるのだ。逆らうことができず、おれは事情を説明してその日も応援職場の上司に平謝りしてノー残業で帰宅した。本来の職場と応援先の職場、二つの職場の事情に挟まれ疲労困憊する日々が続いた。
おれの上司は間違っていない。決して理不尽ではなく、ただ少々融通が利かないだけだった。
悩んでいるのはおれだけかと思っていたが、周りの先輩たちも「あの人が上司になってから仕事がやりにくくなった」とぼやくのを聞いて、少し救われた気はしたのだが。
ジョーはおれがその会社に勤めていた頃の一年後輩だ。
部署は全く違うし、そもそも事業所が違うのに、何の縁かいつの間にか二人で飲みにいくような間柄になっていた。
後輩に慕われることは少なく、先輩にくっついてばかりいた。それに気が付いたのが大学に入ってからで、なんて鈍感なんだと思ったものだ。先輩といると楽だ。後輩にはなぜか気を使ってしまう。本来は逆なのだろう。後輩にとっておれは一応先輩なのだから、色々とリードしてやらなければならない。前に立って歩いたり、話題を提供したり、わからないことを教えてやったりするのだ。しかし、おれは誰かに背後に立たれることが苦手だし、何を話したらいいかわからないし、説明ベタだからいけない。そんなわけで後輩たちにとっておれは、無口で冷淡な怖い先輩、なのかもしれない。
そんなおれだが、ジョーだけはなぜか慕ってくれて、おれとしても会社を去った後でも可愛がっている唯一無二の後輩なのだ。
ジョーと出会えたのは、上司とうまくいかなかったからかもしれない。
ジョーと出会って半年程で、おれはその会社を辞めた。
○
「仕事は楽しいっす。
いや、楽しくはないっすね。
満足はしています」
「上司にもか」
「そうですねえ、優しすぎてちょっと物足りないくらいっすね。
おれ、運動部出身なので」
今の発言はよくわからなかった。上下関係が厳しかった、ということなのだろうか。
「仕事は関係ないのか。
じゃあ、プライベートか」
「プライベートは充実してますよ」
「そうか、恋人できたんだっけか」
えへへと照れるジョーのその様子は、小型犬を髣髴とさせる。
数か月前にこの店で飲んだときに、大学時代の同級生と恋仲になったという話を聞いた。馴れ初めを長々と聞いたような気もするが、よく覚えていない。そのときのおれの精神は例の上司のおかげですっかり参っていて、それどころではなかったのだ。
「なんとか続いています。
はい」
大学に入って間もなく、その彼女に一目惚れをし、以来八年間の片思いの末ようやく恋人同士になれたという。学生の時分には何度か二人っきりで遊びに出掛け想いを伝えてみたものの撃沈。しかしその後も友達関係を続け、いよいよ彼女の方から想いを告げられたそうだ。
いい話だなあ。ちょっと羨ましかったので、そこのところはよく覚えている。
「そうか、いいね、仲良しなんだ」
「はい。
でも、相手はおれよりも仕事忙しいみたいで、帰りも遅いんです。
しかも遠距離恋愛なんで、なかなか会えませんし」
「で、それで大丈夫なの?
会えないんだろう」
「まあ、そうっすね。
休日も向こうの予定が色々と一杯で会えないっすね。
会えるのは三週間に一回ぐらいです」
さっきジョーのいっていた「なんとか続いている」というのは、その彼女、なかなかの美人らしいのだが、相当自由奔放らしい。他の男と遊びに出掛けている、というわけではなさそうなのだが、どちらかというと恋人といるよりも友達と遊ぶ方が楽しいらしいのだ。それを自由奔放といっていいものなのか疑問だが、ジョー自身がそういっていたので、まあ、そうなのだろう。
「おれは大丈夫っす。
あんまり会えないのは寂しいですけど、ちょいちょい連絡取り合ってるんで」
ジョー曰く、べったりし過ぎず、でも疎遠でもない、そんな関係が丁度いいのだという。
「そうだとしたら、一体何がお前を眠らせてくれないんだ」
ジョーはようやく合点がいったという表情でおれのことを見た。
「彼女が…」
ジョーはそのまま黙ってしまった。おれは彼の言葉の続きを期待したのだが、その日はここで彼女の話には終わってしまったのだ。
それが一か月ちょっと前の話だ。
○
「そりゃあ、『ユメクイ』だな」
壁にもたれ掛かった泉水(せんすい)さんがいった。いつものようにオーバーオールの前ポケットに両手を突っ込み、充満する赤紫の煙をぼおんやりと眺めていた。
「ユメクイって何です?」
泉水さんは答えない。おれは自らの拙い思考と僅かながらの知識をフル動員してある答えに行き付いた。
「バクのことですか?」
バクとは動物園にいるあのバクのことだ。バクは悪い夢を食べてくれるともいわれ、ユメクイと呼ばれることもある、とどこかで聞いたことがある。しかし、泉水さんは首を横に振っていた。
「ユメクイとは、夢を喰う妖怪だ」
「妖怪?」
「喰うは難しい方の字な」
「ええ。
ああ…」
「なんだ」
「ああ。
だって、」
妖怪なんて、この世にいるものか。泉水さんが非現実的なことをいい出し、おれの声は思いかけず裏返った。しかし、泉水さんはどうやら本気だ。
「お前、妖怪を信じていない類か」
「だってだって、妖怪なんてこの世にいるわけないでしょう」
「なんでそんなこというんだ」
泉水さんは呆気にとられている。それはこっちの表情だ。
「だって…」
「だってだってだって、ってお前なあ。
視たことないからか、ん?」
「まあ、それもありますよ」
「つまらんやつだ」
癪に障る。
「じゃあ、泉水さん、」
おれはムキなって声を張った。
「泉水さんは視たことあるんですか、妖怪を」
「ない」
「ほら」
「なーにが、ほらだ。
視たことないといっただけだろ」
「視たことがないのなら、いるかいないかなんてわかんないでしょう」
「若月、お前なあ…。
世の中、目に視えるものだけでできてるわけじゃあないんだぞ」
おれは何かいい返そうとして、やめた。なんとなく、おれの気付いていない、おれ自身のどこかが、泉水さんのその言葉を妙に納得してしまったのだ。
「ユメクイには女が多い。
女が多いというか、女として生きた方が都合のいいことが多いんだ。
なぜだかわかるか」
おれの答えを待たずに、泉水さんは言葉を継いだ。
「男を誘惑して、夜を共に過ごすんだ。
ユメクイはな、人間の睡眠時間を奪う。
つまり、その間に観るはずだった夢を喰って生きている。
我々夢の後処理人にとっては、天敵だな」
「西条の恋人がユメクイだっていうんですか」
泉水さんはこくんと一度だけ頷いた。
「なんにせよ、早く別れた方がいい。
でないと、夢を喰われ続けて、いずれ命を落とすぞ。そう忠告してやれ」