振り返ると猫のようなものがドアの前に佇んでいた。
暗い部屋の中でそこだけが不自然なほど明るく、その光源は不規則に揺れていた。
体の大きさは一般的な成猫で、毛は確かに黄金に見える。
確かにそう見えるが――。
二人もすぐに気付いたはずだ。
毛が黄金に輝いているのではない。
体全体が炎で包まれおり、ロウソクのようにゆらゆらと揺らめいている。
ただ、体を纏う炎が自身の身体はおろか周囲を燃やす気配はない。
この世のものではないことは明白だ。
「火車」
ぼくたちの目の前に現れたのは猫ではなかった。
「カシャって、なに」
「火の車って書いてカシャと呼ぶ。
悪事を犯した人間の亡骸を盗んで地獄に運ぶとされる化け猫だよ。
葬式のときに大雨風を起こし、棺の蓋を取り去って死者を奪うとされている。
罪人を地獄に送る「火の車」が転じたもので、その姿は次第に猫として伝承されるようになった。
ほら、死人に猫を近づけてはいけない、とか聞いたことあるよね」
「妖怪?化け猫ってことは、そういうことだよね」
外で雨風が激しさを増す中、火車は黙ってこちらを見つめたまま動かない。
自らの正体を暴かれて警戒しているのか。
それとも単に悪役気取りで、ヒーローの変身を黙って見守る役を演じきっているのか。
「火車は祖母ちゃんの骨を狙ってる、ってことか」
早口に話は進む。
「隠し扉…。
本棚の奥の隠し扉には剃刀で封されていたことを覚えてるよね。
伝承の中には、棺の蓋の上に剃刀を置くと火車に死体を盗まれなくてすむ、という話がある。
きっと潮見くんのお祖父さんは火車に何度か遭遇し、警戒していたんだと思う。
これでこの伝承は証明されたわけだ。
事実、お祖父さんの死後もその封印はお祖母さんの骨を火車から守り続けた」
「ちょっとまて。
祖母ちゃんは何か罪を犯してたってことか」
「潮見くん、それはちょっと違うみたいだ。
君のお祖母さんは真っ当に人生を歩まれた。
原因はそこにはない。
家の敷地内に墓をつくってはいけないという謂れがある。
故人の魂があの世に行けないらしい。
つまり、成仏できないということ。
成仏できない魂は時間をかけて次第に邪悪なものと化す。
潮見くんのお祖母さんは十数年間骨を埋められることなく、その魂はこの家の中を彷徨い続けてきた。
二人とも気付いてないかもしれないけど、この家はとてつもなく禍々しい雰囲気に包まれている。
ぼくはこの家で生活はできない」
素直に、今日まで身体や精神に影響がなかったことに驚いた。
「柚原、ぼくはこのまま火車に祖母ちゃんの骨を渡すつもりはない」
どうやらぼくの最初の説明が悪かったみたいだ。それにぼく自身も勘違いをしていたみたいだった。
「わかってる。
確かにぼくは火車が罪人の亡骸を地獄に運ぶ妖怪だと言った。
ただそれはあくまで伝承であって、事実ではない。
ぼくも火車に出会ったのは今日が初めてだから、火車はそういう妖怪だと思ってた」
でも、実際は違っていた。
「お祖母さんの亡骸を悪霊にしたくなかったみたいだ。
早くあの世に連れていって、成仏させたいらしい。
でも君は今言ったね、渡すつもりはない、と。
火車も力ずくで奪うつもりはないらしい。
潮見くんたちがきちんとお墓に埋葬するのなら、火車は危害を加えない」
ぼくがそこまで言い終わると潮見くんは一歩、二歩、前に出た。
「今度祖母ちゃんの十七回忌があるんだ。
そこでしっかりと供養するよ」
それを理解したのか、火車は空気に溶けるようにして消えていった。
残像すら残らない、あまりにも自然に、本当はそこに存在しなかったかのように。