父さんはいつも通り七時に帰ってきた。
父さんがビール瓶の水滴を拭っている間に、ぼくは二人分の味噌汁とご飯をよそい、大皿小皿を卓袱台に並べた。
二人で食事を始めてしばらくしてから、ぼくは父に一時間ほど前に体験した出来事について話を始めた。
「シュウ、お前、知らなかったのか」
父さんの意外な反応にぼくは唖然とした。
そのときのぼくはきっと、とても情けない顔をしていたに違いない。
父さんはそんなぼくのことなどお構いなしに話を続けた。
「夏に近づくと聞こえ始めて、気付いた頃には聞こえなくなる」
「知らなかった」
「こんな広い家だからな。シュウの知らないこともまだまだあるんじゃないか」
「いつから」
「さあ。いつからかなあ」
父さんはイナダの刺身を一切れ、口に入れた。
「この刺身、うまいな」
「それ、イナダだよ。安かったんだ」
「三年くらい前かな」
「なにが」
「その、音の話だ」
「ああ……」
父さんはイナダの刺身をうまいうまいと言いながら頬張り、ビールを一口。
三年前か、と考えてみたものの、特に何か特別なことがあったようにも思えず、原因やきっかけとなるようなことの思い当たる節はなかった。
やはり、ぼくがあの音を聞いたのは今日が始めてだ。
いや、もしくは、ぼくに「聞こえた」のが初めてだったのだろうか。
「お祖父ちゃんの部屋からも聞こえるぞ」
ぼくは、父さんとこの話を始めてから一度も食事に手を付けていないことに、その時気が付いた。
右手で箸をまごまごとさせてみたが食欲は蘇らず、再びイナダの刺身に手を付ける気にはなれなかった。
父さんは今、何気なく、とても重要な発言をした。「それ、ちょっとマズいような」、とぼくは心の中で呟いた。
それは間もなく、自然とぼくの口から飛び出していた
「それ、ちょっとマズいような」
父さんは不思議そうな顔でこちらを見た。
「いや、うまいぞ」
「胡麻和えのことじゃなくて、祖父ちゃんの部屋の話」
父さんはグラスのビールを呑み干し、淡々と祖父の部屋の話を始めた。
それも三年前頃かららしい。
やはり夏に近づくとそのコツコツという音、父さんにはカチカチと聞こえるらしいが、聞こえ始め、いつの間にか聞こえなくなる。
時間帯が決まっているわけでも、毎日聞こえるわけでもない。
初めは不審に思い祖父の部屋でその発信源を探ろうと下らしいが、音が聞こえるのが祖父の部屋からだけではないと気付き、無駄な詮索はやめたそうだ。
「父さん、怖くないの」
ぼくが訊ねると父は驚いた様子で答えた。
「両親の幽霊が怖い子供がどこにいる」
ごもっとも。