滑らかにカーブした緩やかな坂道を数メートルほど進むと、左手に松の木と苔の生えた石の水受けが見えてくる。
今朝入れておいたビール瓶は、その水受けの中で気持ちよさそうに湧水に浸っていた。
長い年月を掛け湧水が大きな石を削り出し、水受けとなったのだろう。
茄子、葱、トマト、キュウリ、湧水で冷やした生野菜はとにかく美味い。
祖父はぼくのためによくカップのヨーグルトを冷やしてくれていた。
ぼくは何を勘違いしたか、この水受けからはカップのヨーグルトが湧いて出てくると信じていた。
幼い頃の想い出だ。
右手にはぼくの背丈ほどの石塀が見える。
石塀の向こう側はちょっとした中庭になっているが、ほとんど手入れされていない今では、雑草とアリジゴクの住処となっている。
中庭には屋敷の二階へと続く階段と渡り廊下もあるが、これもやはり使われていない。
ぼくは車の駐車の邪魔にならないよう、石塀に寄り掛けるようにして自転車を停めた。
自転車を停めながら石塀の隙間から中庭の覗き込むと、それは思いのほか酷い有様だった。
夏休みに入ったら雑草だけでも抜いてやろうと思った。
不意に、ぼくはもう一度石塀の隙間から中庭を覗き込んだ。
中庭の真ん中に不思議な色を見た気がしたのだ。
そこには黄色の生き物がこちらを向いて佇んでいた。
猫だ。
黄色というよりむしろ金色に近い色。
風は吹いていないにも拘らず、金色のせいあってか全身の毛が僅かに揺らめいて見えた。
金色の猫は相変わらずぼくのことを見つめている。
「シュウ」と声を掛けられぼくは友介の方へ振り返った。
友介のどうしたといった感じの問いに「いや、何でもない」とぼくが答えたのは、中庭にはもうその金色の猫の姿がなかったからだ。
ぼくは一応郵便受けを開け、中に何もないことを確認し、玄関の戸に手をかけた。
ぼくはこの家に来てから一度もこの玄関に鍵を掛けたことがない。
この地域の風習なのか、田舎の風習なのか、「こんな田舎だから盗みに入る人はいないし、それ以前にうちには盗まれて困るようなものもない」と、皆が口を揃えて言う。
そんなものなのかと最初は訝しがっていたが、確かにこの十年間、一度も盗みに入られたことはないし近所でそんな話も聞いたことはない。
平和なことは良いことなのだが、今後もしぼくが都会で暮らすことになったらと考えると、少々不安ではある。
がらがら音を立てて引き戸を開くと、八畳ほどの広い玄関がある。
入って正面の壁には鹿の頭の剥製が飾られているが、高い位置にかけられているので意識して見つめないかぎり目が合うことはない。
もし自然に目があってしまったら、そのときはきっと何かしらの問題が発生しているのだろう。
その下には靴箱があるが、これもまた今は使っていない。
中には祖父や祖母の履物が入っている。
ぼくは友介に「どうぞ」と声をかけた。
靴を脱ぎ、切り株でできた足場を上がるとそこは左へと続く細い廊下だ。
目の前の障子戸は開けられていて、広い座敷が二部屋続いている。
細い廊下を左に進み、だだっ広い和室をずんずんと進むと客間に出る。
ぼくは友介を座布団に座らせ、冷蔵庫から今朝漬けあがったばかりのキュウリと茄子の漬物を取り出し、卓袱台に並べた。
さらに冷えた麦茶をコップに注ぎ、棚からは和菓子を適当につかみ取り、皿の上へと並べた。
これもこの地域の風習なのか、田舎の風習なのか、「お客様がいらっしゃったときは、漬物と和菓子とお茶は最低限用意するもんだ」と、昔祖父が言っていた。
その時分ぼくはまだ小学校に上がる前だったが、やけに印象に残っていた。
ここにきて初めてお客さんが来たとき、祖父のしていたようにちょっとした食べ物とお茶を用意するぼくの姿を見て、親父もそのお客さんもとても驚いていた。
ぼくと友介はしばらく学校の話や夏休みの予定など、他愛もない話をしていた。
どのくらい経ったか判らないが、気づくと午後二時になろうとしていた。
友介は家で昼食を食べると言ったので「じゃあまた今度」と、ぼくは友介を玄関で見送った。
思えばぼくも腹を空かしていたので、一人前の素麺を茹で、きざんだ葱とおろし立てのショウガを添えて遅めの昼食とした。
昼食を終え時計を見ると二時半を指していた。
何をしようかと思い、とりあえずぼくは着ていたカッターシャツを脱ぎ洗濯機に突っ込むと自分の部屋に戻り、Tシャツとジーパンに着替えた。
キッチンに戻り洗い物を済ませ、冷蔵庫の中を覗いた。
昨日色々と買い込んだので明後日くらいまでは食事には困りそうにない。
とりあえず広い家の中をうろうろしてみて、行き着いた先は中庭だった。
ぼくはその縁側に座り中庭を眺めてみた。
見える景色と言えば、目の先の古い蔵と、左手には二階へと続く階段と渡り廊下。
そして目の前の生い茂った雑草とアリジゴクの巣だった。
やはり今日中に草むしりしてやろう。
さすがにこれではご先祖様に申し訳がない。
そう思い腰を上げた瞬間、ヤツらが、中庭の蝉たちが鳴き出した。
途端に全身の力が抜け、ぼくは畳に寝転がった。
今年の蝉は、鳴き過ぎなのだ。
明後日にはもう終業式だ。
特に授業の予習や復習をする必要もないだろう。
夏休みの宿題があるが、それは夏休みの宿題だから、夏休みにやればいい。
今日はぼくが夕食の当番だ。
今日の献立はイナダの刺身と夏野菜の胡麻和えだ。
父さんのビールは今朝から湧水で冷やしてある。
それからさっき刻んだ葱は味噌汁に入れて、茄子も余るだろうから一緒に入れてしまおう。
そう思いながら、ぼくはひと眠りすることにした。
ついでに、冷奴も用意しよう。