左膝をさすった。
あの200段の石段が相当堪えたようだ。
私は寺の本堂に通され、ここで待つようにと言われた。
私は敷かれた座布団に腰を下ろし、住職はというと、せかせかと奥へと消えていった。
私がまだ中学生の頃、この丘に建つ寺によく友達と遊びに来た。
TVゲームが流行りだしたあの時分、外で走り回って遊ぶ子供は珍しかったかもしれない。
そして、ここに遊びに来る度に私たちは何かと騒ぎを起こし、あの住職にはよく怒鳴られたものだ。
野球をしていて、あらぬ方向に飛んだボールで窓ガラスを割ったことがある。
落ち葉を集めて焚き火をして、境内中に煙を充満させたことがある。
お腹が空いたので、お供え物の饅頭を食べたこともある。
極めつけは、叱られた腹いせに仏像に落書きをしたことだ。
今思えば、とんだ罰当たりな行為だ。
あれからずいぶん経つが、住職は今いくつになるのだろうか。
「足は、くずして結構だよ」
奥から戻ってきた住職にそういわれ、私は足をくずした。
彼は微笑みながらお茶を差し出し、私の向かいに座った。
「いただきます」私は湯飲みに手を伸ばし、お茶を一口すすった。
「あれから、ずいぶん変わったよ」
住職が襖を開けた。
海が見える。
ただ、あのテトラポットはもうない。
綺麗に舗装された海沿いの道が、緩いカーブを描きながら東西へ続いている。
「技術の進歩は素晴らしいね。あっという間に家やビルが建てられて、木々や、自然の再生も早かった。おかげで、あの悲惨な状況がまるで夢のようだ」住職は湯飲みに手を伸ばした。「それにしても、こっちは変わらんだろ」
私は部屋を見渡した。
たくさんの仏像がこちらを見下ろしている。
「ほら、この仏像だよ」住職は腰を上げ、仏像を1体手に取った。「君が落書きをした」
彼は私にそれを手渡した。
そこには自動車の絵が描かれていた。
あの頃の私は、自動車に興味があった。
将来はレーシングカーのメカニックになりたかった。
だからあんな落書きをしたのだ。
「すみません。久しぶりに、あそこに入りたいんですが」
住職に案内してもらったのは、古びた蔵だ。
私が仏像に落書きをして、住職にひっ捕まった私は、夜までこの蔵に閉じ込められた。
もちろん反省しろという意味で、だ。
「帰るときは、一言声掛けていってくれ」
そういうと、住職は本堂の方へと戻っていった。
私は重い戸をゆっくり開け、中に入った。
昼でも薄暗く、カビ臭いのは今も変わらないようだ。
天上は高く、今でも手が届かない場所に鉄格子がはまった窓が1つある。
私はあの時と同じように、埃が積もった何かの箱の上に腰を下ろした。
そして、この部屋唯一の窓を見上げた。
あの日、住職にここに閉じ込められ泣き疲れた私は、こうしてあの窓を見上げていた。
気付くと夜になっていて、そこには青空も茜空もなく。
しかし、よく目を凝らしてみると、暗闇の中に小さな光がぽつぽつと見えた。
星だ。
それまで空なんて見上げたことなどなかった。
自分の目線の高さで、そこにあるものにしか見てこなかったから、こんなに綺麗なものがこの世にあったのかと、当時の私は驚いたのだ。
「元気を出して」
そう彼らが言っているように思えた。
ほしのこえが、聞こえたような気がした。
気が付くと、私は居眠りをしていたようで、外は真っ暗だった。
見上げると、窓の、鉄格子の隙間から、星が見えた。
「元気を出して、か」
腰を上げ、尻についた埃を払った。
戸を開き外に出ると、久しぶりに新鮮な空気で肺が満たされた。
私はいわれた通り住職に声を掛け、寺を後にすることにした。
住職には「またいつでも来なさい」と言われたが・・・
私はゆっくりと石段を下り始めた。
街灯が私の足元を照らした。
またここを訪れることがあるのだろうか。
私にその資格があるのだろうか。
微かに。
懐かしい音色が聴こえる。
本当に僅かだったため、始めはどこから聞こえてくる音なのかわからなかった。
私がきょろきょろしていると、次第にその音色は大きくなり、後方からのものだとわかった。
そしてこれは、「星に願いを」だ。
私は振り向かえり、石段の先に視線をやった。
右脇にヘルメットを抱えた、宇宙服の男が立っている。
「父さん、待ってたよ」
そういうと彼は、左手で何かを放り投げた。
宙を舞ったそれを、私は体制を崩しつつも手の中に収めた。
私の手の中には、今、黒焦げたハーモニカがある。
慌てて視線を上へ戻したが、そこに息子の姿は、ない。