珍しく気分よく朝を迎え、遅刻せずに1限の授業に出席した。
なぜだろう?
今日は今までにないほど心が穏やかだ。
いつもなら途中で理解できなくて鉛筆を放り投げてしまう専門科目の授業。
しかし今日はそんな気にすらならない。
「余計な事を考えず、集中して先生の話を聞くんだ。」
そう心に言い聞かせた。
そう思っただけで、不思議とすんなり授業が理解できる。
午前の授業は2つともそんな調子だった。
食事を済ませ、僕は食堂の2階へ向かった。
ドアノブに手を掛け、一度空を見上げた。
空は高かった。
いい天気だ。
ドアを開けるとそこには机と椅子が置いてあり、誰でも自由に使うことが出来るフリースペースになっている。
いつものように窓側の席に座り、バッグから英語のテキストを取り出した。
そして金曜日までの宿題に取り掛かった。
いつもはちょっとしたことでイライラしたり集中できなかったりするのだが、今日はそんなことはない。
穏やかな午後だった。
少し休憩しようと思い、自販機で紙コップのコーヒーを買って席に戻った。
そしてipodを取り出し再生ボタンを押した。
イヤホンから流れてきたのはaikoの「ココア」という曲だった。
「なんだか温かい」と思い自分の二の腕を見ると、小さく光が差していることに気づいた。
そこには、これもまた小さく7色の虹が映し出されていた。
上を見上げると壁には小さな窓があり、ブラインドが掛かっている。
その隙間から僅かに光が差し込んでいた。
僕は音楽を聴きながら、しばらくその光を眺めていた。
そしてふと、柳の事が頭によぎった。
柳は大学で知り合った、今や僕の親友だ。
気づくと僕は、あの出来事を回想し始めていた。
2年生に進学して1ヶ月程経った頃のことだ。
僕と柳は一緒に一般教養の授業を受けていた。
「経済学入門」とうい授業だ。
僕は機械工学科、柳は応用科学科の学生のため、経済学なんてものはほとんど興味がなく授業の内容もとても退屈に感じていた。
「なあ、工藤。」
ボーっと黒板を眺めていると柳が話し掛けてきた。
「どうした?」
「ずっと気になってたんだけどサ・・・」
柳は斜め前方を見つめていた。
「なんだ?」
「前から5列目、ほら斜め前の。あの女の子、かわいいよな。いつもあの席に座ってるんだよ。」
「へぇ。」
栗色の髪をした女の子がいた。
少し長めのその髪には、軽くウエーブがかかっていた。
大きくて綺麗な目、低めの鼻。
血色のいい頬を見れば、彼女が健康だということは明確だった。
「俺、あの子に一目惚れした。」
「・・・。そうか。」
こんな落ち着いた返事をしてしまったが、正直この時は驚いた。
柳がまさか恋をするなんて。
しかも一目惚れを。
いや「まさか」なんて、柳に失礼だ。
誰だって恋をする。
それが自然だ。
「どうしようか・・・。」
柳は僕に恋の相談をしてきたのだ。
「柳、“超ひも理論”って知ってるか?」
柳にとっては突拍子もない話だったろう。
「超ひも・・・?なんだそれ?」
「物理学界には2つ大きな基礎理論がある。“相対性理論”と“量子論”だ。この2つの理論をくっつけようってのが“超ひも理論”だ。」
「へぇ。それがどうしたんだ?」
ちょっと難しい話かもしれない。
そう思ったが僕は話を続けた。
「この理論では『大きさのある1本のひも』を考えるんだが、1つ問題があった。実はそのひも、10次元のひもじゃないと理論が成り立たなかったんだ。」
「何言ってんだ?10次元?俺、4次元までしか知らないぞ。想像できない。」
「だろうな。僕たちが知ってるのは、縦・横。高さ・時間の4次元だけ。残りの6次元はどこだ?って話なんだ。」
「そうだ、どこにあるんだ?」
「残り6次元は、ひもの内側に存在しているんだ。」
柳は相変わらずキョトンとしていた。
「おい、全くイメージできない。」
「ちゃんと説明するよ。ずっと遠くに吊り橋があると考えるんだ。ここからだとまだ遠すぎて線にしか見えない、これは1次元。」
「なるほど。」
「次はもっと近づいてみる。すると幅が見えてくるはずだ、これで2次元。もっと近づいてみろ、奥行きが見えてきて立体になるだろ?これで3次元だ。」
「なるほど。」
「近づけば近づくほど新しい次元が見えてくる。そして新しい次元を発見した。10次元の世界はブランクスケールと呼ばれる世界に存在すると考えられている。」
「・・・。」
「なぁ、柳・・・、」
「なんだ?」
「話しかけてこい。」
「は?」
「今の話はただの例えだ。この理論も遠くからただ見つめているだけじゃ何も発見できなかった。近くで観察する事によって新たな次元の発見ができた。同じだろ?遠くから見てるだけじゃ彼女のこと何も知ることはできない。思い切って話しかけてこい。そこからがスタートだ。」
表情は戸惑っていた。
しかし、
「・・・わかった。ありがとう、工藤。」
授業後、柳は彼女に話しかけた。
最初は「変な男が話し掛けてきた」という顔をしていた彼女だが、数週間後には2人は電話番号の交換をした。
その後の事はほとんど知らない。
柳も話さなかったし、僕も訊こうとしなかった。
気づくと『ココア』は終わって、次の曲に移っていた。
コーヒーを1口飲んで、宿題の続きに取りかかった。
しばらくするとドアの開く音が聴こえた。
振り返ると柳がドアを閉めているところだった。
「やっぱりここか。」
柳は僕の向かいの椅子に腰を下ろした。
僕はイヤホンを耳から外した。
「どうした?」
「あぁ、聞いてくれ。」
「なんだ?」
「俺、あの子に告白する事にしたよ。」
もう、驚きはしなかった。
「そうか。がんばれよ。」
柳は「あぁ」と頷いた。