こんにちは、岡田歩です。(自己紹介はこちら)
の続きです。
自分のコアなエゴの機械(私の場合は疑いと偏執)がどんな風に動くのか、
どんなにおかしなことなのかを、
はっきりと目の当たりにしてできたのは苦しかったけれど、本当によかった。
しかも、嬉しいことしか起きなかったというお祝い付きで、
一つ山を乗り越えた感。
ついでに飲食店当日キャンセルの苦手意識も克服できたし(笑)
(いやでも、ほんと、お店に迷惑がかかるようなキャンセルは控えようね)
出来事としては、もしかしたら小さなことかもしれませんが、
私の意識世界ではものすごく大きなことだった。
お友達には感謝してもしきれません。
もうとっても幸せ気分でベッドに入ったのよねー。
そして翌朝....
朝起きたとたんベッドの中で、
あれ、私、とっても楽しかったんだけれど、
一人で舞い上がってなかったかしら?
なんか、ほんと嬉しくて、はしゃいじゃったけれど、
大丈夫だったからしら?
調子にのって変なことしなかったかしら?
酔っぱらってなかったとは思うけれど、
そう思うのが一番ヤバいヤツだ。
とか、なんとか、
また、妄想が始まりました
もう、自分でもほんとびっくり
もちろん、またまた妄想だというのはわかってますよ。
前日と同じパターン。
山を越えたはずが(涙)
でも、これまでと違うのは、
ほんのわずかな、たった1個の砂粒ほどの明晰性が
ある閃きを私の中に起こしたの。
「あぁぁぁぁ-、こうやって、思考を沸かせることで、
親密さのフィーリングを感じないようにしているんだわ。」
親密さは自分にとって慣れないもので、
親密さを信じれない自分がいて、
だから、親密さのフィーリングを思考によって邪魔し、
かつ、親密感=違和感に感じるように思考を沸かせる仕組みになってるわー。
これね、実は、40年ぐらいのナゾだったのよ。
心理療法を10年ぐらい学んでいたときにも、このことについてはノータッチだった。
あのですね、
最初の記憶は学生のとき。
修学旅行とか、子どもキャンプとかね、
そうした旅から家に戻ってきた後に、
泣きじゃくったことが何度かあったの。
自分では、なんで泣いているのかさっぱりわからないのよ。
何かの感情が湧いているのだけれど、
それが何かもわからないし、説明もできない。
私は一人っ子だし、家は商売をしていて、
いつもずっと一人で過ごしていたのね。
親密さを感じる時間って、ぜんぜんなかった。
突然、ずっとお友達と一緒で楽しく、親密な時間を過ごした感覚と、
家での孤独で殺伐とした時間のあまりの落差に動揺したんだ。
高校生になると、泣きじゃくる、はなかったけれど、
今度は、みんなと楽しくパーティーをした後とか、
とっても嫌な気持ちになることが、何度もあった。
嫌なことなんて何も起こっていないのに、
激しく落ち込んだ。
落ち込んだ気分に完全に巻き込まれていたし、
高校生の頃は、まだ、どんな心の仕組みなんだろうと俯瞰するなんてことはまったくできなかった。
だから、ただただ嫌な気分が過ぎ去るのを待つだけだった。
もっと大人になったときには、こんなヴァリエーションになった。
私はいつもボーイフレンドと一緒にいたがる割には、
実際に一日一緒にいると、二日目はなんだか一緒にいることにうんざりしだす。
そんな自分がまったく解せなかった。
そんなことを感じているのがバレたら、まずいしさ、
自分でもわけわかんないし、そんなそぶりはおくびにも出さなかった。
おそらく、口調とか、態度とか、雰囲気とかで漏れ出たとは思うけれど。
相手のことが好きじゃなくなったのなら、うんざりするのもまだ理解できるんだけれど、
離れると、すぐに会いたくなったし、好きだって思っていたから、意味不明すぎ。
若さゆえの気まぐれだろう(?)ぐらいに思うしかなかった(笑)
こうした、自分にとって不可思議な心の動揺や、うんざり感は、
全部、親密さに対する反応だったんだなぁ。
それが閃きです。
小学生の頃は、自分のエゴのマシンがまだ完全に確立されていなかったから、
動揺程度の反応で済んでいました。
(エゴの構造って、生まれつき決まっていますが、小さい頃はまだ決定的になってないの。
生育環境の中で結晶化していくのです)
さらにさらに親密さとは無縁な人生を歩んでいくうちに、
親密さを「なんかいやーな感じ」と感じるようになっていったのです。
で、親密さを感じないようにするために、
思考をフル回転させる。
この戦略では、
自分の言動を振り返って批判するのがものすごい有効です。
なぜなら、親密さは本来「温かさや・安心感」というクォリティを持つことが多いものだけれど、
自分を批判することで、全部を根こそぎ破壊できます。
こうゆう理解が
本当に一瞬のうちにやってきました。
閃いてもなお、自分を振り返って批判しようとする思考はストップしないのよ
恐るべしポイント6の妄想マシン。
この流れに本当に感謝するしかないのだけれど、
その日は朝の7時からメンターのリサのリトリートだったのです。
大混乱のままリトリートに突入。
前回のリトリートでは、
英語を聞き取るのを止める
をやったら、
愛の感覚の体感がありました。
それは今回も一緒でした。
今回は、ペアワークがあったんです。
一人が一つの決まった質問して、もう一人が応える。
同じ質問をずっと繰り返し問い続けるというワークです。
でね、今度は、英語を聞き取るのをやめただけじゃなくて、
英語で話すのもやめたの。
質問は英語でしてもらって、
私はそれに日本語で答えました。
そのほうが私は繊細な自分の感覚に繋がれるから。
ペアワークで組んだ方が、とってもオープンハートな人で、
何の予想も、想定もないクリアで、かつ温かい意識のスペースで
私の言葉を受け止め続けてくれたのよね。
もちろん、日本語はさっぱりわかっていません。
でも、笑ったり、じんわりしたり共鳴が起こる親密な時間だったんだわー。
こんな体験があって、
この言葉を超える親密さに自分を開きたいって、ますますそう思ったのね。
リトリートが終わった夜、
一人で新宿の地下という、ある程度殺伐とした場所を歩いているとき、
あ、自分自身にであれば、いつでも親密でいられるんだ
って感覚が起こってきたの。
というか、自分自身への親密さが出発点だし、終着点でもあります。
このときから、自分の周りを流れる空気が変わった感じがします。
そして、その2日後に、とどめが刺されました。
私が訳している本の著者の奥様で、
ガンガジという女性のリトリートに参加したんです。
ガンガジって世界的に知らている人でね、日本でも本がでています。
2時間のお話し会には参加してことがありますが、リトリートは初めて。
AM2:30起きで頑張りました!
40人の少人数のリトリートだったので、
ほんの数分ですが、ガンガジと直接お話しする時間がありました。
何を話していいかよくわからなかったし、英語でしゃべるのに緊張していたり、
そして朝の3時でもある....
「緊張しています。でも嬉しいです」みたいなことを言ったのですが、
このときに私の中で起こっていたのは、
とても深く迎え入れられている感覚でした。
よく、ガンガジは「ウェルカム」っていうんだけれど、
ウェルカムを体感していました。
実はね、一年前に、アッシュランドのお話し会で、檀上に上ってガンガジとお話ししたことがあります。
そのときとは、まったく違う感覚でした。
アッシュランドでのときは、
あー、この人写真や動画で見るよりきれいだなぁって、その印象が一番強かった。
このときのほうが距離的には違いし、握手もしてもらったはずなんだけれど、
ZOOMの画面をとおして向き合っている今のほうがとても近い感じがする。
親密さだ!
そう、また親密さです。
このときに、私がはっきり感じたのは、
親密さの場所のこと。
親密さはガンガジが私に与えてくれいる何かではありませんでした。
親密さは私とガンガジの間にある何かではありませでした。
親密さは私のハートの中にある何かでもありませんでした。
親密さにロケーションはありません。
どこにもないけれど、ここにも、あそこにも、どこにでもあるんです。
親密さは、
自分の本性の純粋意識の側面の一つ
「至福/愛」の別名なんです。
私=親密さ
だから、出発点であり終着点。
こうして、「親密さの扉」がちょっぴり開き始めたんです。
何十年も親密さを「不快な感覚」として感じてきた私にでさえ、
扉は開くんだなぁ。
本当に静かにとても嬉しく感じています。
読んでくれてありがとう!
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