今回はここを見て行こうと思います、たとえで 箴言も勿論クリスチャン教会関係の事が書かれていますが「たとえ」で覆いがかかっているので、覆いを取り除くベールを取り除く作業が必要なのです。
箴言17:25
世の中もそうですがしかし母子家庭だったりする家庭の子は一体どうなるのか?あともうすでに父は死んでいたりしたら・・・なんて肉的なことを考えるのですが 聖書のみ!!聖書の事は聖書を検索という大事なことにのっとってみていきます。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
それ自身の解釈をするのではなく他の聖書箇所を参照にします。
そもそも聖書で言うところの父とは?子とは?
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
今は何かとヒューマニズムが教会にも蔓延して、こういう箇所嫌われている部分だと思います、よって聖書の他の箇所がまさかクリスチャンに書かれていることなど解らずに信じられずにいます。
知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。
とも書かれている通りです。
子とは?
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
とあり、クリスチャンの事でもあります(たとえでは)
夫(キリスト)の妻つまり 母とは教会の事を指しています エフェソ五章参照
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
とも書かれており クリスチャンを生む場所役割としての教会という意味合いがあることがわかります。
箴言17:25
神様も愚かな子(クリスチャン)を憂い、そして教会の痛みになることが解ります。
愚かな子にならずに父母を喜ばせる子になりましょう、だけど愚かなことって一体なんだろう?聖書を検索してください、そして読めば沢山書かれてありますよ。
彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。
わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。
愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。
ソロモンの箴言 知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。
憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち、そしりを口に出す者は愚かな者である。
愚かな者には悪事が楽しみ。英知のある者には知恵が楽しみ。
利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす。
すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。
望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう。
知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。
知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。
(家とは教会・神の家のことであって、建てた者が壊すという事柄が書かれているようです)
愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。
利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。
知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。
(愚かな者は怒りやすく自信が強いとあり、クリスチャンとは自分の自信が強いと滅ぶ という事例が沢山あるのに自信が強い すなわち、なんでも霊の賜物=聖霊 だと自信が強いです、さらに人の本を読みこれが絶対だ!自信が強いです。しかしながら 用心深く悪を避けるクリスチャンになりましょう )
短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。
わきまえのない者は愚かさを受け継ぎ、利口な者は知識の冠をかぶる。
知恵のある者の冠はその知恵。愚かな者のかぶり物はその愚かさ。
知恵は悟りのある者の心にいこう。愚かな者の間でもそれは知られている。
知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。
知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない。
悟りのある者の心は知識を求めるが、愚かな者の口は愚かさを食いあさる。
知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな者はその母をさげすむ。
思慮に欠けている者は愚かさを喜び、英知のある者はまっすぐに歩む。
思慮を持つ者にはいのちが泉となり、愚か者には愚かさが懲らしめとなる。
(たとえばクリスチャンだと信用していたのに悪魔教の人だった!とか その愚かさが懲らしめとなってます)
http://www.youtube.com/watch?v=WDYMrAv_gaE
悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。
愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ。
愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはいったいどうしたことか。
愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない。
悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。
愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。
愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。
愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。
愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。
よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。
貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。
人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。
愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。
愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。
(ここも先ほどと似ていて息子クリスチャン父(神様)妻(教会)雨(聖霊)というたとえもあり、教会のいさかいを無くすことがいいと解ります)
さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。
知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。
愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。
愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ。
愚かなはかりごとは罪だ。あざける者は人に忌みきらわれる。
誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ。
馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。
愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。
愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。
愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。
愚かな者が口にする箴言は、足なえの垂れ下がった足のようだ。
愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ。
愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ。
http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10214899392.html 世の酒と悪霊の酒(比較)*
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、
世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
この酔ったといばらの関連がよくわかります。
愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ。
犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。
自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。
愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。
自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。
知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。
愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。
軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。