http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10906763359.html 前回はここを見て行きました「バビロンと魔術」です、信仰によりてクリスチャン生活を送るという事を動画も使って書いて見ました。
そして、今回はこの箇所です。
1テモテ1:18
私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。
1:19
ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。
1:20
その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。
見て行きましょう。
1テモテ1:18
私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。
一体彼らに何があったのか詳細は書かれていません、この場合詳細を集めようとして色々な本を読んだりしますと、逆に解らなくなったりしますので、落ち着いて行きます。
1:19
ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。
1:20
その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。
1:19
ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。
1:20
その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。
聖書の中で人間の名前はとても重要で、信仰の難船に会う人の名前もとても参考になります、いわば「難船にあった船に乗船していた名簿」がここで手に入ります。
アレキサンデル コンコルダンスによれば「人の弁護者(ギリシャ語」という意味があります。
ユダヤ人たちがアレキサンデルという者を前に押し出したので、群衆の中のある人たちが彼を促すと、彼は手を振って、会衆に弁明しようとした。
世の中では、人々に好かれようと、好意を持ってもらおうと人気を得ようとしたり、非難されたくないばかりに人の弁護に回ったりする人もいます、世の事はともかく
兄弟姉妹の中で、「神の義」をないがしろにし、このように人々の側につきいかにも善い人のようではあるが本末転倒、人々の民衆の正義を前面に出し、神の義を引っ込めるような人が沢山居ます。
1:19
ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。
1:20
その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。
えてして、「人の弁護に回ると正しい良心を捨てる、信仰の難船に会う」 事が書かれているように受けます
かつての人々も 腹を神として「剣は来ない、飢饉も来ない疫病も来ない、捕囚の民は直ぐに帰ってくる」など人々に好かれる、人の弁護者がいました・・・が結果は聖書を読めば解ります。
ヒメナオの意味は解りませんが、もう一人の名前が書かれていることを覚えておいてくださいね。
私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。
凄いですね、サタンの使い道 といいますか、神を汚してはならない事を学ばせるためにサタンに引き渡す という使い方、利用法 がかかれてます。
世の中にも、「○○で大変な目にあって滅ぶ所だった」 という場合そこから学べるのです、もうしない、金輪際縁を切る そのように学ぶ事が出来ます、とてもいい子になり礼儀正しく、優しく、人を思いやる事の出来る人に成長を遂げる事も可能です。
そんなわけで、ただ引き渡すのではなく、そこから学ばせようとするパウロの愛を思います。 では、人の弁護者ではなく神の御旨を行うパウロの箇所をどうぞ
神の御心と外れている場合 それらの人を弁護するのではなく 神の御心を語る人になりましょう!
ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」