民数記 第11章
1) さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。
2) そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。
3) 主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。
http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10867675538.html
前回はここの箇所を見て行きました
まるで災難にあっているように主の耳につぶやく事を辞めること、そうならないような教会の進め方、及び『とりなしをするモーセのようなクリスチャン』の事を書きました。
そしてさらに深く見て行きます。
民数記 第11章
1) さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。
いきなり主の火が宿営の端を焼くのではなく 順番があります。
民数記 第11章
1) さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。
主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。
神の民の心の移り変わりが関係していると思います。
つまり、今までのようでは嫌だ!不平不満を言った後→宿営の端が火で焼かれる
これは何か?教会の預言でしょう 二千年たつと昔の教会のような感じではなく随分変わってしまいました、なぜか?神の民のゆえに です。
平気で人の書いた本を教会で読んで聞かせたり、販売したり、この世と調子を合わせたいろいろなものが教会に入ってきています。
これもひとえに、神の民が心変わりし 今までの教会では嫌だ という意思表示を行動に移していると見ています。
さて、主が作ってくださった宿営(教会)の中でこれら神の民の心変わり 行き着く果てには何があるかといえば、しるし、奇跡、癒し などの『しるし』を求めています。
民数記 第11章
1) さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。
火は霊に『たとえられ』このように宿営が悪霊の火で焼かれています↓
動画一覧 http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html
2) そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。
とあり、中に住んでいる神の民が『危険である事を察知すること』が上げられます・・・が『聖霊』と信じ込んでいるので、かえって恵み、幸せ、豊かになった欠しい事は無い、という風になっていますので、そのままどんどん焼かれているのではないのでしょうか。
どうしてこうなったのか、昔からの教会の秩序正しさ、聖書のみ という枠を飛び越え不平不満をいい、まるで災難にあっている人のように 行動してきたからではないですか。
http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html (しっかり動画を見て自分の所属している教会の霊現象と見比べ、見極めてください)