安産祈願に対してだけではなく、様々な意味での御礼参りを済ませた誉田八幡宮を後にし、次の探訪地へと向かいます。

神社を出てすぐの東高野街道には、武将たちと誉田八幡宮の繋がりを見る事が出来ました。



江戸時代の派手やかな車祭(だんじり)の描かれた碑には、平安時代に当地へ移された社殿が、織田信長による兵火によって消失した事。

慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により再建されたのが現在の社殿である事が書かれていました。

信長公による兵火とは、石山本願寺攻めの時でしょうか…。

また、秀頼公による再建とは父・秀吉亡き後に、家康に散財を目的に焚き付けられた、幾多の寺社の再建によるものでしょうか…。

いずれにしても、この場所も戦国時代の争いに巻き込まれ、そして今に残る形を残したのだと知り、感慨深い思いになりました。

大坂夏の陣では、真田信繁が陣を布いたとも言われていますから、まだまだこの先もこの地を巡る時が来そうです。



次に訪れたのは『白鳥稜古墳 はくちょうりょうこふん』…日本武尊の御陵です。

日本武尊が亡くなられた時に白鳥に姿を変えたお話は有名ですね。

『滋賀の伊吹山での怪我が元で、大和に帰る途中の伊勢で亡くなり、白鳥に姿を変えて河内の旧市邑(ふるいちのむら)に舞い降り稜が造られたが、ついには天に上ってしまわれた』

日本書紀などに、日本武尊の白鳥伝説としてこのように伝えられています。

この時の、『羽を曵く(ひく)ように空を飛んでいった』という言い伝えが羽曳野市の名称の由来となり、

旧市邑に舞い降り造られた稜…これが白鳥稜古墳です。



2017年4月。初の遠征となる三重県への旅路の中で、能褒野神社(のぼのじんじゃ)の境内にある日本武尊の御陵へと参拝しました。

その時に、『日本武尊の墓はここだけでは無い。しかし、墓の在りかが重要なのではなく、神聖な場所とするために墓を置き、護る事が重要なのだ』と伝えられた事を思い出しました。

あの頃には深く意味を受け取れていませんでしたが、高野山を巡った事で学んだ事。

現代のお墓の意味とは違い、建てられた墓碑としての役割…つまり、皆が慕ってその主に手を合わせる事こそが大切なのだと思います。

今も多くの人に慕われる日本武尊。

私も大好きな神様です。

こうして手を合わせ、繋がれる場所に詣る事が出来た事に感謝を伝えました。



次に訪れたのは『白鳥神社 しらとりじんじゃ』です。

前回の旅で、この白鳥神社にほど近い古市駅まで歩いて来たのにも関わらず、ご挨拶出来なかった神社です。

御祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)



無人の旧村社と言えど、なかなかに風格があり清々しい神社です。

元は白鳥稜の頂きに鎮座し『伊岐宮 いきのみや』と呼ばれていましたが、南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ヶ塚古墳の小祠として祀られてきました。

慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、天明4年(1784年)に古市の氏神として現在地に移されたとされます。

桓武天皇からの『伊岐宮』の勅額(ちょくがく=皇帝や天皇などの直筆の書で記された寺社額)の下賜などがあったとも言われていますから、かなり意味のある神社であったと思われます。

数々の災難に見舞われた神社ですが、現在もこうして風格を感じさせるのは、祀られていらっしゃる神様の神格が高いのだと感じます。

地元の人たちに愛される、素晴らしい神社でした。

さて。

時間も頃合になりましたので、先程の埴輪製作の出来る『大蔵屋』さんへと改めて向かいます。

御先祖様が携わってきた埴輪作り。

楽しみでワクワクしながら車を走らせました。

ーその⑧へと続く