873冊目『ライシテから読む現代フランス』(伊達聖伸 岩波新書) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

ライシテとは、フランス国内における公的領域から宗教的要素を排除する厳格な政教分離政策のことをいう。おそろく特定の宗教だけを礼賛するようなことは、どの国でもやっていない。世界の教科書を読み比べた宗教社会学者の藤原聖子によれば、キリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、自国の宗教のみが唯一の正しい宗教であり、他の宗教は邪教であるとは述べておらず、信仰形式の多様性として捉えられている(421冊目『世界の教科書でよむ〈宗教〉』)。ライシテと呼ばれる政教分離政策も、宗教の多様性を保証するフランス独自のシステムでありながら、同時に共和国の原理でもある。ただこのライシテが極めて独特なのは、宗教の多様性を保証する方法として宗教の否定を行うことである。たとえば、学校に登校する際に、ムスリムの生徒は、スカーフを巻いて登校することは禁じられている(スカーフ禁止法)。同様にキリスト教の信者がキリストのペンダントを身につけることも禁止されている。この否定の平等性において宗教の多様性を保証するのが、フランスのライシテである。

 

とはいえ、ライシテが宗教の多様性を保証するものだとは言っては、それはどうも表向きの理由らしい。実際は、ライシテは治安管理の意味合いが色濃い。二〇一五年のシャルリー・エブド事件は、世界中に衝撃を与えたが、それ以前にも一九八九年にはスカーフ論争があり、フランスは、内なる他者であるムスリムをどう社会に包摂するのかをめぐって、長年苦悩し続けたといってよい。イスラム派過激テロリストは、フランス国内を動揺させ、イスラムフォビアの温床にもなっているし、ルペン率いる国民戦線のような極右の台頭も見逃せない現象である。多様性の保証というライシテの理念とは逆に、敵対心、警戒、分断といった不穏な雰囲気がフランス社会を覆っている。ライシテは、現状では、原理主義のイスラムの台頭を阻止し、フランスの自由を守るための宗教管理のための政策になっているが、これを本来の共生の原理へとどう作り上げていくのかが、フランスが直面している大きな課題であろう。

 

ただ、フランスのイスラムに対する警戒も理解できなくはない。そもそも抑圧的な宗教的な権威を打倒して、革命を達成した共和国のアイデンティティからすれば、スカーフを巻く女性は、共同体に隷属する哀れな個人に見える。そうした個人を共同体の抑圧から解放させるというのが、フランス的自由のあり方だろう。ただもちろん、ここではスカーフを巻きたいという個人の事情は勘案されていない。またフランスでは宗教批判も表現の自由であると考える。だからシャルリー・エブド事件のきっかけとなったムハンマドの風刺画も表現の自由の範疇であり、だからこそ、表現の自由を奪おうとするテロリズムには厳しい姿勢で臨むべきだというのが、フランス側の見方である。とはいえ、そのフランス的自由が抑圧的な結果をもたらすこともある。二〇〇八年に託児所に勤めるムスリム女性が、スカーフを巻いて出勤したという理由で解雇されるという事件が置き、裁判所もこれを合法とした。この事件は、一企業内においても、スカーフの着用は禁止されるとした点で、現在のライシテが向かおうとしているところを図らずも示唆することとなった。むしろ、ライシテが内なる他者を作り上げているのではないか。

 

ここまで来ると、ライシテの方が宗教化しているのではないかという疑問が出てくる。つまり、ライシテは、管理であることを越えて、もはや誰もが奉ずべき価値となってしまったのだ。「『ライシテ』の用語に引きつけて言えば、法的枠組みであるはずのライシテが、価値としてのライシテに横滑りしているということであろう」(207頁)。多様性を保証するはずのライシテが抑圧的なものに変質してしまったことはなんとも皮肉な事態である。しかし、ここには治安管理的な側面に加えて、リベラリズムの論理の限界も露呈しているように見える。岡野八代は、現代のリベラリズムが、自律的な主体を政治原理に据えることで、人々との関係性や互酬性を排除してきたと述べ、さらに、そうした社会で価値の審級に祭り上げられるのは法しかないと述べる(706冊目『フェミニズムの政治学』)。空腹で死にそうなホームレスが、スーパーでパンを盗んでも、「法を破る者は刑務所へ」というのがリベラリズムの論理なのだ。フランスで、ライシテという法が審級的な存在になってしまうのは、まさにリベラリズムの要請である。実際、スカーフ禁止法は、スイスでも導入され、これは決してフランス一国だけの問題ではない。フランスのライシテをめぐる混乱は、同時にリベラリズムの混乱でもある。