421冊目『世界の教科書でよむ〈宗教〉』(藤原聖子 ちくまプリマ―新書) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

 異文化理解の必要性が強く唱えられるようになった背景には、2001年に起きたアメリア同時多発テロ(911テロ)と関係があるだろう。ニューヨークの国際貿易センタービルの65階にジェット機が突入するあのシーンの衝撃は今でも忘れられない。このテロの実行犯はイスラム教徒だとされた。米国は、その後、報復としてイラク戦争をしかけた。1996年に著したサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』がまるで現実化したようだった。

 

 911テロ以降、キリスト教圏の学校ではイスラム教を野蛮な宗教だと教えているのだろうか。他の宗教にしても、自らとは異なる宗教に対して敵愾心を煽るような内容になっているのだろうか。混乱する国際情勢を前にして、そのような疑問が浮かぶ。しかし、本書によれば、実際には程度の差はあれ、どの国の教科書も自らが帰属していない宗教でも尊重することが大切であるメッセージをしっかり教科書で伝えている。

 

 異文化理解とは、他者を知ることだ。だが、他者とは一体、何だろう。米国の文芸評論家テリー・イーグルトンは、保守にとって他者は他者でしかないが、リベラルにとっては他者の自己の反映だ、と述べている(『反逆の群像』青土社)。学校教育における異文化理解はどちらかというと保守的な他者観を前提に、文化や価値観が異なる他者とも上手くやっていきましょうという感じだが、しかし、他者というのは、本質的に他者ではない。

 

 異文化理解とは、文字通り、自分とは異なる背景・価値観をもつ他者をしっかり理解するということだが、私は最終的には「相手は自分と同じだ」ということに思い至らなければ異文化理解にはならないと思っている。私は映画が好きで、年間150本ぐらい見るのだが、韓国、中国、米国、フランス、ドイツ、ポーランドなど、様々な外国映画を観る。映画で描かれる他国の風習や文化を見てその異質性に違和を覚えつつも、最終的には「人間って、皆同じだな」と思うことの方が多い。その時、他者が自分になる。映画は私にとって最良の異文化教育なのだ。