868冊目『デカルト「方法序説」を読む』(谷川多佳子 岩波書店) | 図書礼賛!

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最近、デカルトの『方法序説』を読んでいる。哲学史上もっとも有名だと言っていい「我思う。ゆえに我あり」という言葉は、この本の中に出てくる。それにしても「我思う。ゆえに我あり」とは、一体どういう意味なのか。それは論理的に導かれる帰結を述べているか、単純に直感的なことを述べているのか、判然としない。しかし、だからこそ、この言葉は多様な解釈を許し、今に至るまで論争の的であり続けているのだ。そういう意味では、デカルトは決して過去の人物ではない。『方法序説』を読むと、デカルトは当時の哲学について辛辣なことを言っている。

〈哲学〉については何も言うことはありませんが、ただつぎのことだけは言っておきましょう。哲学は何世紀ものむかしからこの世に生を享けた最もすぐれた精神の持ち主たちによってはぐぐみ育てられきましたが、それにもかかわらず、いまなお議論の的にならない、したがって疑わしくないものは何ひとつそこに見いだされないのを見て、私は哲学においてほかの人たちよりも見事な成功をおさめたいと願うほどの厚かましさは少しもなくなってしまいました。(『デカルト全集Ⅰ』白水社、17ページ)

つまり、哲学は疑わしいことを論じている学問に過ぎないとデカルトは言っているのだ。そこでデカルトは、書物による学問を放棄する。とはいえ、哲学が疑わしいことと書物の放棄には、あまりにも飛躍がある。書物を読んでいる人は誰も、その内容を鵜呑みなんてしてないはずだし、常に批判的に読むという思考の癖さえ身につければおけば、その「疑わしさ」に惑わされずに済むからだ。そもそもデカルト自身、そうしたクリティカル・リーディングをしてきたからこそ、哲学は疑わしいと言えばはずなのだ。この部分は、『方法序説』を読んで私がもっとも気になることの一つなのだが、デカルトの解説書を複数読んでも、この疑問を取り扱っているのは皆無だった。さて、デカルトは、疑わしい哲学の世界において、絶対確実な方法を確立しようとする。それが、「我思う。ゆえに我あり」だ。

 

デカルトの思考法は、こうだ。まず絶対確実な原理を取り出すために、いったんありとあらゆることを疑ってみる。そうすれば、学問も宗教も科学もいくらでも疑える。もっと言えば、私が生きているこの現実が、実は夢かもしれない。デカルトの懐疑はここまで行き着く。デカルトが面白いのは数学的命題もまた懐疑の対象となると述べているところだ。2+2が4なのは、自明に思えるが、しかし、欺く神が嘘の数学的命題を我々に吹き込んでいる可能性もある、とデカルトは言うのだ。しかし、あらゆることを疑った果てに、決して疑いえないものの存在に突き当たった。それが「考える私」の存在である。私の住んでいる世界は夢かもしれないし、私の存在は嘘かもしれながい、そのように疑う自分は今ここに存在することだけは絶対に疑えない。こうして、デカルトは、絶対確実な存在として「考える私」を取り出すのである。この「考える私」は、数学的論理よりも確実な存在としての「私」なのだ。

 

「考える私」から全ての思考を出発させるデカルトの哲学は、近代的自我の発見して哲学史上では見逃せない意味をもっている。しかし、この「考える私」を特権的に扱ったために、「考える私」(精神)とそれ以外(物質)というように、極端な二文法を用意してしまった。これを心身二元論というが、デカルト的な見方だと、身体は、ただ精神にぶら下がった物質だということになる。とはいえ、近年、自由意志をめぐる議論において、脳神経科学の知見を踏まえて、人間の行動は脳からの生理的な指令に従ってるだけで自由意志なるものはないという立場も出てきている。あるいは、テクノロジーの進歩による可能となったコミュニケーションできる機械を、我々と同じく人間と見なしてよいのかという疑問も出てきた。これらはもとは辿れば、デカルトがすでに論じた問題の延長線上にある議論である。そういう意味では、我々は少しもデカルトは超えてはいないのだ。

それでもなぜデカルトなのか。個々の問題解決能力には難点や限界があるとしても、問題提起の豊かさ・広さ・深さにおいて、その哲学の偉大さが計られるのではないでしょうか。デカルトの問題提起は根本的であり、その射程は広大でした。(168頁)

デカルト哲学は、現在においても、人間とは何かを考える格好のテキストであり続けている。