869冊目『デカルト 「われ思う」のは誰か』(斎藤慶典 NHK出版) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

著者は、いきなり主題とは何か、というデカルト的な問題とは一見無縁な話から始めている。著者は、主題についてこう述べる。

しばしば私たちは対話の現場から遠ざかった後で、ようやくそこで何が語られていたかを理解し始めないだろうか(12頁)。

たしかに、テーマを決めて議論をすると意外と話題が窮屈になり、自由な発想の下に議論が進展していかない場合がある。逆に、テーマも決めず、ゆるやかに意見を交換することで、そのうち会話が弾んでいき、そこに何かしら議論めいたものがあったのではないかと、後になって遡及的に発見されることがある。哲学書を読むときでも、著者の意図を掴むことに過度に拘ると、読みがそのダイナミズムを失ってしまう。むしろ著者の意図から離れた主題だけを取り出し、そこに様々な読み替えをして、哲学は発展してきた。そういう意味では、主題の誕生には作者の死がある。これが主題の力学である。さて、この本はタイトルの通り、デカルトを論じた本である。副題には「『われ思う』のは誰か」とある。

 

前回の記事(868冊目『デカルト「方法序説」を読む』)でもデカルトを取り上げたが、本書でも多くのデカルト解説書と同じく、「我思う。ゆえに我あり」についての解釈に多く筆が割かれてる。そして著者の解釈は実に面白い。著者は、この文章において一般的に理解されている「疑っている私の存在は疑えないがゆえに、私は存在する」という解釈は間違っていると主張する。では、哲学史上あまりにも有名なこの文言は、一体どういう意味なのか。この文言は、通常では、あらゆることを疑った方法的懐疑に果てに絶対に疑えない「考える私」が発見されたと理解されている。つまり、「我思う。ゆえに我あり」は近代的自我の端的な表明である。以降、精神と物質とに区分けする心身二元論が、近代認識論の基本的な枠組みを作ったことから、デカルトは「近代哲学の父」とまで呼ばれるようになった。しかしながら、著者は、ここでデカルトが述べていることは、「疑えない自分がいる」ということではないと断ずる。つまり、考えている私の存在は否定できないから、私の存在は確実であるという意味ではない。ここでは、デカルト自身や、私の主体は何の問題にもならない。ただ「考える」ということだけが否定できないと言っているのだ、というのが著者の解釈である。

デカルトが言わんとしているのは、「思考し」たり、「感じ」たりするのが人間としての私であるか否かは疑おうとすればいくらでも疑えるのに対して、ここに端的に「思考する」「感ずる」という事態が出現してしまっていることだけはいかにしても疑うことができない、ということなのである。」(62頁)

ここで言われてるのは、デカルトが発見したのは、自分という主体ではなく、観念だということになる。つまり、私自身の存在はいくらでも疑えるが、ここに「考える」という営みが宿っていることだけは絶対に疑えないと言っているのだ。そうであれば、デカルトのあの言葉は、次のように修正されなければならない。「我思う。ゆえに思うあり」だと。無論、このようなデカルト解釈は、デカルトの真意とずれているかもしれない。ましてやデカルトの言葉を修正するなど、デカルト思想への冒涜とでも言うべきものかもしれない。しかし、ここで冒頭の主題についての考察で述べられていたことを思い出してほしい。主題は、必ずしも著者の真意と重ならなくてもよい。むしろ、著者から独立したところに主題が主題たる所以がある。デカルトを読むとき、私たちはデカルトの真意ではなく、そこにある主題を読もうとしているのだ。おそらく、デカルトが今に至るまでに読み続けられているのは、彼の著作に投げかけた主題の広さと深さのゆえであろう。我々が人間について考える限り、デカルト的主題から決して抜け出すことはないのだ。