859冊目『近代性の構造』(今村仁司 講談社選書メチエ) | 図書礼賛!

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現代は、ポスト近代なのか、それとも後期近代なのか、という議論がある。いずれの立場を取るにせよ、近代そのものをきちんと捉えていないことには話にならない。私は、岡野八代の『フェミニズムの政治学』(706冊目)が、近代思想の深部から近代社会の矛盾を最も徹底的に暴いてみせた論として評価しているのだが、本書『近代性の構造』もまた、近代社会の根源性を析出した書として有益な書である。以上の二冊は、近代社会を論じるにあたっての必読文献であるだろう。著者は、近代性の根源として、①未来の先取り、②企てる精神を挙げている(第二章「近代性の根源 時間論」)。近代は、円環的な時間を生きていた前近代から脱し、未来なる概念を生み出した。こうして時間は直線的になり、人類は、過去から未来へ発展する進化形の生物としてのアイデンティティを獲得する。

 

このような直線的な時間意識が生まれたのは、宗教的権威が失墜し、未来の利潤を回収する商人の時間意識が支配的になってきたからだというが(66頁)、興味深いのは、時間の直線的意識だけでなく、「企てる精神」がないところに近代の精神はないというところである。「企てる精神」とは、将来に向けた計画である。現状の立ち位置を認識し、現状を変革するために計画を立て、決行する。国家も企業も、組織と名のつくものは、すべてこの企てる精神を持っていなければならない。企てる精神がないと、組織は存在できない。近代は合理主義の時代だと言われるが、あくまでも理性は脇役である。未来へ向けた決断の確実性を高めるために理性的思考が必要というだけで、あくまでの補助的な能力でしかない。近代は、この「企てる」精神で動いている。デカルトもヘーゲルもハイデガーのその思想の裏には、この「企てる」という近代の精神が根付いている。

 

人間が過去から未来へ向けて発展するという歴史観は、進歩史観だと言われる。ヘーゲルが言うように、理性的な動物である人間は、理性の狡知によって弁証法的に高次な真理へと至る。この変化は不可逆的で、たとえば、民主制から絶対王政へと回帰することはありえない。だからフランシス・フクヤマは、冷戦が終了したときに、「歴史は終わった」と言ったのだ。しかし、当然ながら、歴史は終わらない。今生きている時代はいったい何なのかという、素朴な問いが残るだけである。むしろ、現代は、人間は本当に進歩したといえるのかという問いこそ突きつけられている。近代を象徴する科学革命、産業革命は間違いなく人類の生活を豊かにした。しかし一方で、深刻な格差社会、ポピュリズム、核兵器の開発など、前近代よりも深刻とさえいる問題を次々と生み出している。こうした問題を放置して近代を野放しで称賛するわけにいかないのも事実であろう。

 

本書は、そうした近代思想の裏の部分にこそ焦点をあてて議論をしている。著者は、近代のヒューマニズムには、人間/非人間という切断線があるという(223頁)。岡野八代『フェミニズムの政治学』でも述べているように、近代の個人観は、理性、主体、非依存であることを前提にしている。これは裏を返せば、感情的で、他者に依存する主体性なき人間は「人間ではない」ということになる。近代社会は、さまざまな人間を抹殺してきた。ホロコーストはまさにその最たるものだが、これが近代の帰結であることに我々はまず戦慄しなければならない。著者は、この近代の宿痾を乗り越えるために、異者になれと主張している(233頁)。異者というのは、中心から外れた異物、つまり、外国人、女こども、被差別者のことである。こうした排除される側の視点で考えることの重要性を著者は訴える。しかし、その視点の獲得のために「理性の能力が試される」(同頁)というのは少し違和感が残る。おそらく、他者への視点の移行を可能にするのは、理性ではなく、想像力である。だからこそ、現代社会で進行中の想像力の簒奪が緊急に解決しなければならない問題なのだ(644冊目『官僚制のユートピア』)。想像力の涵養にこそ、近代の救済を賭けてみたいと私は常々思っている。