638冊目『イワンの馬鹿』(レフ・トルストイ 小宮由訳 KTC中央出版) | 図書礼賛!

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「囚人のジレンマ」という思考実験がある。別々の独房に入れられた二人が、検事から司法取引を提案されるが、囚人ふたりとも共に沈黙を守ることが最善の手段であるのに(つまり、お互い最も短い刑期で済む)、どちらも罪を自白し、中期の懲役刑をくらってしまうという話だ。ここでのポイントは、当人にとっては合理的な判断でも、結果として愚かな決断をくだしてしまっているというところにある。デカルト以降、理性的思考が信奉されたが、実は人間の合理的思考は、愚直な結論に向って突き進む場合があるのかもしれないということを、この実験を教えてくれる。実際、こうした例は、古今東西に溢れかえっている。その最たるものが、戦争だろう。戦争は独裁者の狂気によってもたらされるものだと思われているが、実はそうではないのかもしれない。戦争は、実は愚直なまでに合理的であろうとした結果、生じるのではないか。たとえば、今回のウクライナ侵攻を決断したプーチンにしても、ウクライナのNATO加盟→ロシア侵略の恐れ→自衛としての軍事作戦の行使という流れが、きわめて自然な流れのように見えているのかもしれない。

 

小説『イワンの馬鹿』は、トルストイの晩年期の作品で、年端も行かない少年少女を対象とした児童書である。三男坊のイワンは、畑仕事をする以外に脳のない男である。長男セミヨンは軍人として、次男タラスは商人として成功している。老悪魔は小悪魔を使って、この三兄弟の離反を目論むが、長男のセミヨン、次男のタラスは簡単に篭絡できても、バカのイワンだけはどうにも埒が明かない。イワンの破滅を目論むはずが、逆に悪魔たちの方が破滅に追いやられていく。イワンは、勲章や出世のようなものに興味がない。イワンに関心があるのは、ただ目の前の畑仕事に精を出すことだけだ。兄ふたりが、イワンの財産を奪い取っても、決して怒らないし、「好きなだけもっていったらいい」などという。もちろん、現実的にはイワンのように生きられる人間などそうはいないだろう。我々のような凡人は、薄給を嘆き、同僚の昇進に嫉妬する等、醜い生を生きざるをえない。しかし、こうしたイワンの聖なる生き様は、私たちがいかにくだらない虚構を追い求めているかが分かるのだ。

 

いかなる物欲ももたないイワンだが、なんの因果か、国の王様になってしまった。だが、だからといって、派手な服装に御馳走三昧といった奢侈な生活をするわけではない。むしろ、そんな暮らしはまっぴら御免で、王様の身分なのに百姓仕事を始めてしまう。王の威信など何もなくて、家来が逃亡しても捕まえないし、盗人がいても不問に付す。「イワン王は馬鹿じゃないか」と思った家臣は、イワンのもとから離れていく。しかし、そのことで、金に執着せず、ほどほどの生活で満足する人たちだけが国内に残った。そんななか、老悪魔は隣国をそそのかして、イワンの国を侵略させるが、イワンの国の人々は全く抵抗しないので、侵略側の兵士が戦死喪失して撤退してしまうというありさまだ。戦争でもダメなら、今度は金漬けにしてイワン王国を内部から崩壊させることを企てた老悪魔だが、これもまたうまくいかない。イワン国内では、人々が自給自足の生活で事足りており、お金など溜め込んでも意味がないからだ。しびれを切らした老悪魔は、「バカな力仕事よりも頭脳労働の方が素晴らしい。頭を使って仕事をしなきゃダメだ」と言い、演説を始めるが、老悪魔の言葉はイワン国内に住む人々の胸に全く響かない。

 

トルストイの『イワンの馬鹿』を読みながら、、私はこの本は「バカの戦争論」として読むことができると思った。イワンは金や権力などといったものには全く関心を示さず、すべて自分の身体の感覚から物事を捉えようとする。一方で、老悪魔は「頭を使った仕事が大事なのだ」として、その合理的思考を突き進めようとする。つまり、この物語は、身体対理性という、哲学の伝統的な心身二元論の図式を軸にしながら、身体の勝利を掲げているのである。私たちは戦争について考えるとき、その正当性を考えてみたりするが、しかしそれは為政者の思考だ。為政者が合理性の果てに戦争という手段に辿りつくとき、我々は「何かおかしい」という身体の感覚から、そうした合理性の狂気を相対化すべきではないだろうか。ベトナム戦争時、米国内で起きた反戦のムーヴメントは、愛する父、息子、恋人が兵隊に捕られてしまうという身体からの抵抗に起因している。しかしながら、現代の戦争の特徴として、第二次世界大戦時に支配的だった総力戦体制から「非戦力戦的性格」が強まっている(『占領と平和』(道塲親信 青土社 617頁)。軍事技術のハイテク化に伴い、現代の戦争はまたしても、プロの軍人だけが行なうものへと変質している。その意味で現代の反戦の課題は、ブラウン管を通して眺める戦争のリアリティに対する身体の感度をいかに保つかにある。