635冊目『占領と平和』(道塲親信 青土社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書は、第一部「『菊と刀』と東アジア冷戦-あるいは「日本文学論」のパターン」と、第二部「『反戦平和』の戦後経験-対話と交流のためのノート」に分かれるが、ここでは第一部の内容に関してだけ扱うことを、予め断っておく。なお、以下、叙述される全ての内容(「日米安保と沖縄」以外)は本書に全面的に依拠するものであり、それゆえ直接引用する箇所以外は、いちいち該当ページを明記することはしない。

 

菊と刀

第一部のタイトルにある「菊と刀」という言葉は、アメリカ人が書いた日本文化論の名著として今に至るまで長く読み継がれてきている。この本の著者、ルース・ベネディクトは日本に住んだことも、訪れたこともないにもかかわらず、精度の高い日本文化論を書き上げた、とされている。一般的に日本文化論として読まれることが多いこのテクストだが、本書の著者道塲道信は、「政治性を帯びた文書として読む」(52頁)ことを方法論として取り入れている。結論を先取りすれば、『菊と刀』は、単なる日本文化論ではなく、冷戦構造における日米合作のナショナリズムの産物である、というのが本書の主張である。『菊と刀』の著者であるルース・ベネディクトは、日本人の戦意を研究する戦時情報局(OWI)に参加していた。人類学者としてアカデミズムの世界にいたルースが、戦時下において軍の調査機関に参加したのは、近代戦特有の総力戦の事情がかかわっている。第二次大戦は、純粋な軍事力の優劣によって勝敗が決まることが多かった第一次大戦とは違い、学問や生活や趣味までもが軍事に動員された「総力戦」の時代であった。そのなかで敵国研究もまたひとつの学問として発達していくことになる。米国政府機関内に複数ある敵国研究機関のひとつである戦時情報局で、ルースは敵国の戦意の分析を担当することになった。つまり、ルースに求められていたのは、人類学的知見に基づく敵の「秩序化」であった。当時の米国の対日政策の論議には、軍部の独走を穏健派が抑え込めるように側面援助をすべきという「介入慎重論」、日本の体制の欠陥を批判した上で、日本人自身に改革を行うよう奮起を促す「積極誘導論」、天皇制を含む大規模な改革を占領軍が行なうべきというする「介入変革論」、そして、敗戦後の日本を国際社会に復帰させず、世界から隔離して監視下に置くべきだとする「隔離・放置論」の四つの立場があったが、ルースが参加するOWIは、天皇と一般国民を除外し、軍部の戦争責任のみを追及するという点で、「介入慎重論」と「積極誘導論」の中間点に位置していた。注目したいのは、米国挙げての帝国(日本)研究は、敗戦直前の1944年まで全くの手探りだったことである。たとえば、「生きて捕虜の辱めを受けず」を信条とする日本兵捕虜への処遇をめぐる方針が定めっておらず、当初、日本兵を捕虜にせず、投降した日本兵まで射殺するなどの対応をとってきた。しかし1944年6月には、天皇を攻撃することは対敵宣宣伝としては致命的な誤りであるという結論に至り、天皇批判の性格が強かった初期の対日のプロパガンダはすぐに消え去り、戦争責任を天皇ではなく軍部に負わせる戦略に出た。そして実際、天皇免責の戦略は日本兵捕虜も賛意を表すものであった。注目すべきは、米国による天皇研究の正確さである。天皇は超自然的な力をもつ存在であり、かつ日本文化の最高の理想を表現した存在であるが、この天皇観の確立は、近代国家の始まりである明治期に創られた、いわば「創られた伝統」(ホブズボーム)なのだが、「本当にその習慣が古いかどうかということよりも、人々がそれを古いものと信じることが重要な意味をもつ、つまり実際の歴史ではなく天皇制によって仮構された歴史こそが重要な意味をもつ」(94頁)ものという、90年代に隆盛を極める文学研究のカノン理論を先取りする視点にすでに到達しているのだ。『菊と刀』で描かれる日本像は、いわば、戦時中の敵国研究の蓄積の結果、得られた日本人像なのだ。また、当時の出版事情についても触れておく必要がある。GHQは、1945年9月15日に「言論及び新聞の自由に関する覚書」を発し、検閲制を敷いた。注目すべきは、占領下の出版事情に冷戦構造が入り込んでいることだ。この検閲によって反共政策としてソ連の図書を排除する一方で、米国主導の世界秩序に適合的な書物を流通させていた。さらには、左派系出版社を廃業に追い込むために、事前検閲から、より経済的ダメージの強い事後検閲体制に切り替えている。『菊と刀』の日本語翻訳が出版されるのは、1948年だが、この年は、米国国家安全保障会議で「アメリカの対日政策に関する勧告」を採択し、対日政策を転換し、東アジアの冷戦に備える戦略に舵を切った時期でもある(逆コース)。『菊と刀』は、このような冷戦構造のなかから、GHQのお墨付きとして出版されたのである。

 

天皇

占領開始の時期は、天皇の処遇をめぐる動きは実に流動的で緊張感があった。その間隙を縫ってイニシアティブを発揮したのが、連合国軍最高司令官のマッカーサーである。米国政府は、占領政策として天皇を利用する立場ではあったが、天皇の戦争責任を不問に付すことまでは考えていなかった。実際、1945年9月18日の米国議会上院では、「日本国天皇裕仁を戦争犯罪人として裁判に付すこと」が決議されている。米国本土でこの決議の文書作成が行なわれている時期に、マッカーサーと昭和天皇の第一回会談が行われている(9月27日)。マッカーサーはこの会談で天皇を免責する趣旨の発言をしたとされ、すでに本国の意向とは異なる天皇処遇に着手していた。マッカーサーが昭和天皇との初会見のときから、天皇に好意的だった理由は、玉音放送ひとつで日本国民に降伏を受け入れさせた天皇の権威に感服し、それを占領政策に利用できると考えたからだとされる。マッカーサーは、早々と天皇の戦争責任の不訴追を決める。マッカーサーは、占領期間中は、異例なほど行動の自由を与えられ、この時期を最大限に利用して、戦後日本の基本的な枠組みである象徴天皇制と憲法体制をマッカーサー手動で事実上作り上げてしまった。米国国務省をそれを追認以外なかった。このときのマッカーサーの論理は、終戦までの天皇の政局とのかかわりは大部分が受動的なものであり、日本国民の敬愛の対象である天皇を訴追すれば、占領計画に大きな変更が生じ、日本国民は必ずや大騒動を引き超す、というものであった。そして、さらにマッカーサーは踏み込んで、大騒乱に陥った日本国民をもう一度軍事制圧する事態になったとき、100万人規模の軍隊が必要とするであろうとし、さらには自由を奪われた大衆が共産主義を志向する恐れがあると本国政府に警告した。反共の論理でもって天皇訴追に反対した姿勢には、明確な冷戦構造への意識が伺える。マッカーサーがある種こうした強気の態度でいられたのは、日本占領の実験を握っているのが実質GHQだったからである。連合国による対日占領管理機関の「極東委員会」は、この時期においてはやっと設置することが決まった段階であり、マッカーサーは事実上、占領統治を独裁的に行う自由を行使できた。「極東委員会」が設置されたときには、GHQはすでに「日本の民主化に関する基本的な指定を一応出尽くした」という、戦後処理に一区切りがついたという声明を早々と出している。しかし天皇存置は国際的には抵抗をもって受け止められるものであったために、天皇制存置のバーターとして、日本は非武装化することがどうしても必要であった。ここに憲法一条と九条がつながる回路が見えてくる。「『非武装』ゆえに『天皇制』を容認する勢力と、『天皇制』維持のために『非武装』を容認する勢力との間の政治的妥協がここには表現されているとも言え、占領者であるアメリカとの二国間関係でなく、日本国憲法が戦後の日本国家の在り方を国際的に公約するという『承認』のプロセスが含まれているということができるだろう」(149頁)。結果、東京裁判では、訴追の権限は米国選出の首席検事ジョセフ・キーナンだけがもつものとされ、キーナンはマッカーサーから昭和天皇を訴追しないよう方針を周知徹底されていた。結果、1946年4月3日、極東委員会が天皇の戦犯除外を決定する。この不訴追は、マッカーサーが敷いたレールを順調に辿った結果であった。
 

安保

1945年、帝国日本は敗戦した。その後、GHQの占領下に置かれることになる。占領はひとつの戦後処理であるが、米国からすれば、それは冷戦構造を有利に進めるための戦時体制の構築という性格をもっていた。実際、ファシズムが帝国(日本)を倒しても、米国は新たな敵を発見し、常に戦時体制を継続させてきた。戦後、米国の敵となったのは北朝鮮、共産中国、北ベトナムなどの「赤い国家」であった。冷戦の深化にともない、1950年には朝鮮戦争が勃発したことで、これらの国は敵として「本質」化された。サンフランシスコ講和条約で、独立を回復したが、同日に日米安保条約も締結されていたことを忘れてはならない。つまり、敗戦日本は、米国のパートナーという形でしっかり西側陣営に組み込まれているのだ。もちろん、これは日本だけに限ったことではない。東アジア全体がこの冷戦構造に巻き込まれた。そして、この体制を構築維持するためにさまざまな暴力がもちいられた。沖縄の「銃剣とブルドーザー」、韓国済州島の「四・三事件」、台湾の「二・二八事件」などである。冷戦構造を背景にした、こうした軍事態勢構築下での犠牲は、当時においてはほとんど問題にすらされず、後年になって冷戦の再審を経て、問題として掘り起こされたものたちである。こうした軍事暴力がそれまで隠蔽されてきたのは、体制のナショナリズムが、米軍中心のグローバル軍事態勢と呼応していたからである。そのもとでは、体制と米軍との結託の産物が続々と生まれてくる。だから『菊と刀』は単なる文化論として読むのではなく、日米のナショナリズムが融合する高政治的な次元の文脈に位置づけることが必要である。『菊と刀』は、同質的な日本人像を提供しながら、一方で沖縄の人々は全く出てこず、まるでなきものであるかのようにされている。これは、サンフランシスコ平和条約締結後、沖縄に米軍基地を集中させるために平和憲法の適用外に沖縄を位置づけたことと無関係ではない。平和憲法の国に外国軍が駐留するという安保体制の矛盾は、蓋をして覆い隠すほかなかった。実際、占領下では、沖縄報道も検閲の対象であった。また、1960年の安保条約改定をめぐる議論は、共同防衛地域に沖縄が含まれることが問題とされ、沖縄は除外されることになったという経緯がある。1960年の安保反対運動は、沖縄に「本土」が巻き込まれることを拒み、安保体制に矛盾を沖縄に押しつけることで解消しようとするものだった。日米安保の矛盾を突き付けてくる沖縄は、常に周縁化を強いられる。沖縄は、サンフランシスコ講和条約第を日本政府が受諾したことをもって、正式に日本本土から切り離され、1972年の本土復帰まで、日本ではなくなったのである。米軍による沖縄の本土引き離しは、一方で、戦前の帝国日本の論理を引き継ぐ形といってもよいものであった。なぜなら、帝国政府は、敗戦濃厚の戦争末期、和平交渉において、「固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とすること」と判断しており、沖縄は捨てても構わないものとされていたからである。また、本土による沖縄の捨て石政策で無視できないのは、やはり「天皇メッセージ」であろう(1)。天皇メッセージは、昭和天皇による沖縄への米軍の長期駐留の要請である。昭和天皇の決断の背景に、共産主義圏の脅威があったとされるが、このような天皇外交を行ってでも、米軍駐留の正当性が図られたことはもはや戦後の国体は日米同盟だといっても過言ではないだろう。天皇制は米軍によって守られている。であるとすれば、米軍の戦争犯罪である原爆投下は不問に付すほかない。昭和天皇は戦後、広島訪問の際、記者会見で「被爆者には同情するが、しかし原爆投下は戦時下でもありやむを得なかった」と述べている。

 

日米安保と沖縄

本書は占領期に形成された冷戦体制へとシフトしていく日米両政府の蜜月した関係を膨大な資料をもとに明らかにしたものだが、少し私なりに捕捉しておく。日米安保は、戦後日本の国体とも言える存在だが、歴代の日本の政権がすべてこの日米合作のナショナリズムに積極的だったわけではない。例えば、吉田茂である。吉田茂こそ、アメリカ優位の東アジア秩序の構築に対して、強かな戦略を見せた人物である。吉田が選択した、安全保障を米国に丸投げにし、経済成長だけに邁進する戦略(吉田ドクトリン)は、戦後の日本政治の原則となった。共産圏封じ込めのために日本にも軍事貢献を求める米国に対して、吉田は「再軍備は日本を窮乏化さ、共産主義者が望むような社会不安を生み出すことになる」と主張し、切り抜けた。反共の論理でもって再軍備を拒否する狡猾さがなんとも痛快である。憲法九条、非核三原則、平和国家日本というイメージは、米国からの圧力を食らわずにすませる妙案として、狡猾な外交戦略であった。こうした日本外交は、国内ではむしろ肯定的に評価された。臆病外交と言われようと世界の戦争から超然とその圏外に立つことが賢明だと述べる評論家もいたし、日本は経済的利益を良好に保つことが大事で、「無原則外交」が良いと主張する外相もいた。そして、あげくには宮澤喜一の「一切の価値判断をしない外交」発言にまで至る(545冊目『アメリカの世紀と日本』)。米国がもたらした九条を盾に取り、狡猾に振舞う戦略は現在も有効であろう。今回のウクライナ侵攻を受けて、ツイッターでは九条改正をここぞとばかりに主張する保守層が目立ったが、九条を改正することで、こうした狡猾な手法が今後取れなくなってしまうデメリットの意味をもっと重く受け止めた方がいと私は思う。さて、今回のウクライナ侵攻を受けて日米同盟は今後、どうなっていくのであろうか。以下、少し悲観的な私の見立てを述べておく。ロシアと領土問題を抱えている日本にとって、今回のウクライナ侵攻のインパクトは測り知れない。とすると、今後、日米同盟を強化する動きは日本側の方から強まっていくと考えられる。リベラル陣営の平和論も、圧倒的多数の世論の力に押し切られる可能性が高い。当然、憲法九条改正ということにもなってくるだろう。自民党政権下での憲法改正がいかに危険であるかは、一部保守派からも懸念が示されるくらいだが、侵略国の脅威が喧伝されれば、一気に右派寄りの準軍事体制が出来上げる。こうしたファシズムがわりと容易にできてしまう気がするのは、先日した通り、戦後日本の55年体制が無原則外交を貫いたことで、政治上の価値判断の空洞化が起こっているからである。もちろん、これまでにも日米安保体制の矛盾を問う試みはなされてきた。2010年の民主党政権では、鳩山由紀夫総理(当時)が、沖縄の米軍基地負担を減らすために、「最低でも県外」というスローガンのもと、普天間米軍基地の移転先を沖縄県外に求める試みがなされた。あるいは、哲学者の高橋哲哉が沖縄県に多大な負担を強いる安保体制を「犠牲のシステム」と呼び、その矛盾を告発したりもした(231冊目『犠牲のシステム 福島・沖縄』)。しかし結局はそれだけである。日米同盟の犠牲となっている沖縄の問題は断続的に話題になりながらも、根本的な解決策が模索されることはなく、皆がこの話題になんとなく飽きてきたところで議論は終了するというサイクを繰り返してきた。いわば、沖縄問題がネタ化している。さきほど、「日米安保の矛盾を突き付けてくる沖縄は、常に周縁化を強いられる」と述べたが、この沖縄を周縁化させることで、安保の問題点を終焉させる暴力が、沖縄が現在置かれている状況的な問題である。今回のロシアのウクライナ侵攻は、沖縄問題をネタ化せず、徹底的に考え抜く機会ではないだろうか。

 

(1)「アメリカが、日本に主権を残し租借する形式で、二十五年ないし五〇年、あるいはそれ以上、沖縄を軍事支配することは、アメリカの利益になるのみならず日本の利益にもなる」