637冊目『平安文学の本文は動く』(片桐洋一 和泉書院) | 図書礼賛!

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大学受験の勉強をしているとき、古文が面白かったので、大学でも国文科に進学し、古文を読んだ。主に『新編日本古典文学全集』で読んでいたが、『新日本古典文学大系』や『新潮日本古典集成』でも読んだ。毎日古文を読んでいくなかで、日記文学と呼ばれる作品に関心をもった。それでなけなしの金で日記文学の作品をどうにか揃えた。ちなみに卒業論文は『讃岐典侍日記』を扱った。このときの私の古典の付き合い方はすでに活字化されたものを読む以外になかった。当然変体仮名も読めなかったし、古注を参照したり、底本研究などもしたことがなかった。そういう意味では、学問のスタートラインにすら立てていなかったことになる。その後、大学院に入学し、同じ院生の仲間から橋本不美男の『原典をめざして』(笠間書院)を勧められたりして、平安文学特有の問題を意識するようになった。平安文学が、写本によって作られ、写本として読まれていたことは常識だが、この常識を改めて考え直すことで、私がもっていた文学概念も変容していった。

 

本書『平安文学の本文は動く』は、まさに写本による本文生成のダイナミズムを端的に表現したタイトルと言えよう。平安文学の写本は、コピーの機のように同一のテクストが複製されるのではなく、しばしば後人による加筆がなされる。『伊勢物語』はその典型のような作品で、普通本の段のストーリーに飽き足りないものを感じた読み手が既存の物語に後日譚を付け足した異本が複数存在している(第六章「後任による補筆)。このように物語に後日譚を付すことで、写本の過程で新たな物語が生み出されるというのが平安文学の本質である。ならば、草稿や完成稿といった概念にも厳密な区分をつけることができない。なにより作者という存在も考え直さないといけなくなるだろう。今に伝わる平安文学の作品の多くは自筆本ではなく、鎌倉期以降の写本をもとにしており、『源氏物語』もまた藤原定家によって編纂された青表紙本が紫式部の自筆本にもっとも近いとされているが、紫式部の自筆本がどのようなものだったのかは皆目分からないとしかいいようがないのである(172冊目『「源氏物語」という幻想』)。

 

以上のような、古典作品を研究することの難しさは全て大学院時代に学んだ。そして、この学びは私の修士論文のテーマにもつながっている。私は修士論文では、『紫式部日記』の消息的部分について書いた。消息的部分とは、清少納言を辛辣に批判したり、弟よりも学問ができた等々が書かれている部分である。『紫式部日記』は、紫式部の嫉妬や自慢といった内面が顔を出す消息的部分がやたら注目されるが、作品の比重は彰子が産んだ敦成親王、敦良親王の生誕を寿ぐことにある。こうした主家の繁栄を寿ぐ記事を「女房日記」(宮崎荘平)というが、彰子サロンに仕えている紫式部ならば、こうような日記を書くのは立場上当然といえる。ただ、いまいちよく分からないのは、主家の繁栄を寿ぐ記事で、どうして、「清少納言の行く末なんて終わっているわよ」、みたいな陰口が書かれているのか、ということである。また消息的部分の箇所だけやたら、丁寧語の「はべり」が出てくるのもアンバランスである。したがって消息的部分は実は、日記とは無関係な消息文(手紙文)が誤って入ってしまったのではないかという混入説が唱えられたりするわけだが、一方で、いや、これは天才紫式部なりの文学的表現なのだといって、あくまでひとつの作品として読まなければならないという考えもある。今はどうだか知らないが、私が研究していたときは後者の考えが主流だったはずだ。

 

その後、消息文混入説を主張する田淵句美子の論文を読んだことで、自分なりにこの問題を深めてみたいと思った。ちなみに田淵句美子の論文は、消息的部分は紫式部が娘賢子に宛てた女房としての心構えを説いた手紙であるとの主張である。私は消息的部分以外の「はべり」という言葉を分析しながら、田淵句美子の混入説を支持するという考えを論文にまとめて修士論文にした。そして最後に、消息的部分が、あくまで『紫式部日記』作品の一部であるという従来の見方は、「一つの作品」という近代文学のイデオロギーが働いているのではないかとも書いた。また古典のカノン化に伴い、紫式部が国民作家にのし上がっていったことも、統一性のある『日記』像を後押ししたのかもしれない。しかし、作者による統一的な作品というのは、近代文学のイデオロギーであり、古典作品にはそのまま当てはまらない。そもそも作者という概念があったのかどうかさえ疑わしい。『源氏物語』などの物語作品は、作者の署名が書かれていない。それはおそらく、物語というものが、本文が写される過程で新たな物語を生み出すという、物語享受の流動性ゆえだと思われる。「享受者すなわち読者が、制作者すなわち作者の立場に立って本文を補い、作品世界をさらに拡大深化させようとすること」(47頁)、物語の享受において作者と読者が融合する、このことが平安文学を研究する際に踏まえておかなければならない大事なことなのである。