172冊目『「源氏物語」という幻想』(中川照将 勉誠出版) | 図書礼賛!

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『源氏物語』という幻想/勉誠出版

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私は、大学院では日本古典文学を専攻した。もう少し詳しく言うと、「日本語日本文学コース 中古散文」という研究室にいた。ただ、「中古散文」とはあまり言わず、「源氏研」と言っていた。そして、「源氏研」というだけあって、指導教授を交えた院での演習の授業は、『源氏物語』を虚心坦懐に読むということが意図された。私がM1(修士一年)だったときは、『源氏物語』の「葵」巻を皆で読んでいた。今となっては当たり前の学問のデュー・プロセスにすぎないが、私は『源氏』を読むにあたって、古註釈を片っ端から調べ上げるという、当該テクスト外への作業の徹底に驚愕したのだった。思えば、学部生時代の私といえば、底本など何も気にせずに、現代語訳がない『新大系』(岩波書店)より、現代語訳がついている『新編日本古典文学全集』の方が読みやすいという程度の理由で、古典テクストを選択し、読んでいた。そして、学部時代の授業のレポートでは、底本ならぬ「定本」を読んで、思ったことをそのまま感想として書く、ということの繰り返しであった。それだけに古註釈を片っ端から調べるという、授業スタイルに驚いたのだった。そして、これはやってみるとわかるが、かなり根気にいる作業であった。ひとつの授業の予習(下準備)として、最低でも二〇時間を必要であったろう。

さて、そういう辛い思い出とは裏腹に、古註釈を見るのは結構楽しかった。我々は、古典がよく読めない、分からないなどと言って頭を悩ませるが、なに古の人であってもよく分かっていなかったのである。その証拠に諸註釈では該当本文をめぐって、様々な解釈をとり、見解が一致しないこともざらだ。面白かったのは、古注釈ではほぼ解釈が一致していた文章が、現今の注釈となるとまるで逆の意味に解されるという例も数多く見られたことで、いろいろ調べたり、院生メンバーで議論したりして、どうも古註釈の方が正しそうだぞ、という結論が出たりすることもよくあった。こういうことを体験すると、学問の進歩は階段を上るように一歩一歩確実に前進するわけではないのだなと肌で感じることになった。それにしても、古典テクストの意味の確定の困難さは、底本の信頼性にある。自筆本が現在に至るまで残っていれば問題はないのだが、『源氏物語』をはじめ、多くの古典作品は自筆本がない。平安時代の写本ですらないのだ。だから、研究者をはじめ、古典の真実の姿に迫りたいと思うものなら誰でも、いわゆる「原典」というものを手に入れたくなってくる橋本不美男の『原典をめざして』は、まさにそうした古典学者の願望が表出された本だ。

さて、ここからは今回取り上げる『「源氏物語」という幻想』の内容に入っていこう。本書の主張を一言で言ってしまうと、今読んでいる本文が紫式部が書いた本文と一致しているのか分からない、ということである。「分からない」という結論はどうかと思うが、しかし、この結論が持つ重要な意味については最後の方で述べよう。本書では、『源氏物語』テクストに関して、「幻想」されている原本と、そこから派生した伝本との関係をめぐって考察をめぐらせている。我々が今、目の前にして読んでいる『源氏物語』は、紫式部の自筆本ではなく、藤原定家によって編纂された青表本『源氏物語』である。『源氏物語』のすべての本文は、通常、次のように三つに分かれる。

青表本 → 藤原定家の青表紙の系譜
河内本 → 源光行、親行の系譜
別本  → 青表本、河内本にも当てはまらない。

この三つの中で、とにもかくにも青表紙本が底本として選択され、いわば信頼たる本文テクストして絶対的な存在になっている。それはなぜだろうか。著者いわく、それは池田亀鑑『校異源氏物語』の研究成果にあるらしい。はやく言えば、池田亀鑑は、青表紙本こそ改訂の箇所が少なく、紫式部の自筆の本文ともっとも近い内容を保持していると考えていたのだ。池田は、当初河内本を底本とする『校本源氏物語』を完成していたのだが、青表紙系統大島本が発見されたことをもって方針転換した。池田亀鑑賞は言う。「その数量において、またその形態・内容において稀有の伝本であり、校異な源氏物語の底本として採択、その稿を起こした当時は勿論のこと、その後二十余年に至るもこれを凌駕する伝本の出現は聞かない。」(30頁、引用からの引用)。結果として、池田は「青表紙本は河内本に比して本文をみだりに改めず、伝来のままに尊重する態度をとつてゐる。このことは定家の性格に由来するものと思われる」(『源氏物語大成』)として青表本を「伝来のまま」の形態を留めているとして規定することになった。しかし、著者は「青表紙本」を伝来のままの非校訂本と認めてよいのかという議論を展開する。たしかに定家の『明月記』(嘉禄元年二月一六日条)における、『源氏物語』書写における日記叙述には、「無証本之間、尋求所々、雖見合諸本、猶狼藉未散不審」とあり、『源氏』本文の意味困難か箇所については、いまだに「不審」のままであるとしている。たしかにこれだけ読めば、諸伝本による校合をおこない、本文に句読点を施した河内本とは対照的に原型を留めていそうなのは、青表紙本のように思えてくる。しかしながら、定家自筆本『奥入』では、古写本から本文を取捨選択したという叙述が存在するのだ(64頁)。したがって、青表紙本の『源氏物語』もまた、紫式部自筆『源氏物語』からは階梯のある校訂本であり、定家の願望が具現化した『源氏物語』といえるのである。そして、結局また同じ結論の繰り返しになってしまうが、紫式部が書いた『源氏物語』の中の本当に本文とはどういうものであったのかというのは、何も分からないままなのである。
著者の本書で一番強調しているのは、この「分からない」ということである。確かに、「分からない」状態から「分かる」ことにするのが学問ではないかのかという批判もありうるが、だからといって「わからない」ことを無理矢理「わかる」と言っても意味がない。むしろ、本書は従来「分かっている」とされてきたことを本当は「わからない」のだということを明らかにしたということで意義深い。きわめてファクトな試みである。私は、古典研究においてはもっとファクトに迫った論文が多く書かれていいと思う。そういう意味でも本書の存在は貴重である。

あと少し批判的なことを書きたい。世では、文学的に味わう価値がある文章が伝来のままの本文の形態を残しているとされたとう結論する箇所があるが、少し根拠が足りないような気がした。