410冊目『語彙力を鍛える』(石黒圭 光文社新書) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

 国語講師として生徒の語彙力を豊かにする方法をいつも考えては悩んでいる。「語彙力の鍛え方」は国語講師としてもっともその力量が試されるもののひとつであろうが、私は自分のなかで確固たる指導法をもてないでいた。そんな私にとって、石黒圭『語彙力を鍛える』(光文社新書)は、語彙力指導を考える上で大変すぐれた本であった。

 

 本書では、語彙の量を増やすこと、そして語彙の質を高めることの二方面から語彙力を鍛える本である。前者では、主に類義語、対義語、上位語下位語というカテゴリーに収めることで語彙の数を増やし、後者では、コロケーション、多義語を管理するという観点から、語彙の質を高める方法を体系的に整理している。

 

 私がなかでも膝を打ったのは、「実物を考える」ことの重要性である。最近、授業で和辻哲郎の『茸狩り』(2010早稲田・政経)を扱ったのだが、都会の現代っ子が山村での茸狩りをイメージできるのかなと思った。「灌木」という実物をイメージできる生徒がはたしてどれ程いるだろう。そもそも漢字の読みすら間違えていそうだ。対象をイメージできなければ、言葉は空疎な記号に成り果てる。「言葉は言葉の世界だけで完結していると考える人がいますが、それは錯覚です。言葉は現実の世界と密接に結びついています。」(109頁)。

 

 対象を意識するということは、言葉に騙されないということでもある。私のいる業界では、程度の差はあれ、「熟練した一流講師が、入試問題の本質を的確に解説し、成績を飛躍的に向上させます」みたいなことをどの塾・予備校でも宣伝する。しかし、「熟練」にしろ、「一流」にしろ、「本質」にしろ、「飛躍的」にしろ、それ自体何も真実を証明しない言葉であるし、事後説明でいくらでも取り繕える言葉である。消費社会というのは、言葉という記号を食べて生き延びるわけだが、せめてもの職業倫理として講師の氏名、および学歴(院に在籍したものは、修士論文のテーマ)、講師歴はきちんと公表して、言葉だけを一人歩きさせてはならない配慮をした方がいいと思う。