386冊目『丁寧に読む古典』(小松英雄 笠間書院) | 図書礼賛!

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 小松英雄の著作との出会いは私にとってまさに衝撃であった。大学時代に『日本語の歴史』、『日本語はなぜ変化するか』、『仮名文の構文原理』、『古典和歌解読』、『みそひと文字の抒情詩』(いずれも笠間書院)を読み、大学院生のときにはほぼすべての著作を揃えた。小松英雄は一連の著作を通じて古典文法の書き換えを行い、和歌研究者が『古今和歌集』を読めていないことを示した。私は小松英雄の本を読むたびに、その痛快な語り口を楽しみながらも、テクストが示す意味を厳密に辿ろうとする文献学的アプローチにいつも下を巻いたものである。本書でも、わずか和歌一首の表現解析のために50頁も費やしているなど、徹底した手法を用いている。小松英雄の真理への執念はどの本にも一貫している。

 本書では、和歌解釈において、主に①仮名の特性、②毛筆という観点から表現の神髄に迫っている。小松氏は「仮名」と「平仮名」を区別すべきだという。日本にはもともと独自の文字はなかったわけだが(神代文字があったという説もあるが・・・)、中国から漢字を輸入し、「万葉仮名」という借字を編み出し、文字による表現手段を獲得した。しかし、漢字をただ羅列するだけでは意味の切れ目が分からない。そこで、「前後の文字との切れ続きを示し、語句のまとまりを表すことができる」ように草仮名が発明され、仮名の母胎となった(77‐78頁)。そして、仮名の音節体系の特徴は清濁を書き分けないことである。「あらし」が「嵐」と「あらじ」の掛詞になるのは、清濁の区別を問わない仮名の特性を利用したものである。

 仮名の清濁の区別がないというのは、なにも仮名が不完全な体系であったということではない。仮名の特性を充分活かす手段としてあえて書き分けなかったのだ。そもそも、万葉仮名では清音と濁音の区別があったにもかかわらず、仮名では清濁の有無がなかったのは、何かしら表現の利点があったからである。では、その利点とは何か。たとえば、次の和歌を見てみよう。「くるるかとみれはあけぬるなつのよをあかすとやなくやまほとときす」(壬生忠岑・古今和歌集・夏・157)。平安前期の和歌はこのように全て平仮名で書かれていた。この「あかす」には「明かす」と「飽かず」との両方の意味をもって解釈されるのだが、言葉は線上的に理解すべきという原則から、まず「夜を明かすとや鳴く」という解釈が先行的に成り立ち、もう朝なのにどうして泣き続けているのだろうかと考えて、「飽かずとや鳴く」、つまり、まだ泣き足りないから泣いているのだろうと理由づけが事後的になされる(122頁)。ここでは、「明かす」が初読であり、「飽かず」が次読として、線上の文字の羅列に見事な複線構造が織り込まれ、みそひと文字の世界を豊かにしている。漢字を当ててしまうと意味が一義的になってしまうので、このような表現技巧は仮名でしかできない。

 本書でもうひとつ、特筆すべきことは、毛筆の観点から和歌を読み解いたことである。『寸松庵色紙』に収録された毛筆で綴られた古今和歌集の表現を、墨の濃淡、文字の大小、配置といった、筆遣いから和歌の真意を読み解いている。これはもうほとんど神業の領域である。多くの人は和歌を勉強するときには、活字化されたテクストを使用している。古筆まで遡って和歌の深奥を味わおうとする者は稀である。しかし、そこには画一化された活字が羅列されているだけであり、仮名の清濁の二重構造や毛筆の綾はすっかり排除されている。もちろん、古書の活字化による文学的な貢献は計り知れないものがあり、私もその恩恵を受けてきた。しかし、同時に活字化することは、毛筆でのみなされる表現の機微から目を逸らすことになってしまったのだ。私はもうしばらく変体仮名で古文を読む訓練をしていないが、毛筆で書かれた原典を読む楽しみを味わうためにもまた再勉強である。