385冊目『おもしろ古典教室』(上野誠 ちくまプリマ―新書) | 図書礼賛!

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 古文講師をしていると、「なんで古文を勉強しなければいけないんですか」と生徒からよく言われる、というのは私の場合は当てはまらなくて、私はあまりこの手の質問を受けたことがない。質問されてもろくに答えられないのでラッキーだったわけだが、しかし、今の生徒がこういう素朴な質問さえ抱かないのだとしたら、それはそれでなんか寂しい気もする。古文を勉強する前に、「本当に必要なのか」と疑ってみる姿勢はとても大事なことだと思う。というより、効率性を至上命題とする資本主義体制において古典は本当に必要なのかという問いは学者ですら議論を戦わせている注目の一大テーマなのだ(『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して徹底的に考えてみた』文学通信)。

 戦後の古典教育論については渡辺春美に詳しい研究があり、本ブログ312冊目(渡辺春美『戦後古典教育論の研究』溪水社)でも取り上げた。その本の中で、私が面白いと思ったのは益田勝美の「内言」である。私たちは言葉にする前に、自らの語彙の領域から選び取っている。益田は、この語彙の領域のことを「内言」を呼び、「内言」を豊かにすることこそ、古典教育の目的だと主張し、古典教育を擁護した。なるほど、人格形成や民族のアイデンティティなどという微温的なナショナリズムに回収されがちな古典教育にとって、「内言」の豊穣というのは普遍的な説得力がある。厳密には内言ではないが、本書でも著者の上野誠は同じようなことを経験している。著者は学生時代、福田恒存の講演会を聴いていたが、内容に腹が立ったので席を立ってしまった。自分でも怒りの原因がどこか分からなかったが、後日、『徒然草』九十三段「牛を売るものあり」がその原因であることがわかった。これも古典的教養という内言が自分が抱えている今の問題に回答を与えてくれたわけだ。

 『徒然草』九十三段の「牛を売るものあり」の話は次のようなものである。牛を売ろうとしている男だいた。そして、その牛を買いたいという男に出会った。翌日に買い取り、代金を払う約束をしたが、なんとその日のうちに、牛は死んでしまった。したがって、その場ですぐに契約をしなかった買い手はラッキーである、と。しかし、これに対して、兼好はこう答える。「牛は死んでしまったが、牛の持ち主は生きている。命はどんな大金よりも貴重であり、そのことを考えれば牛の代金を取り損なったことは些細なことである」(43頁)。詭弁といえば詭弁だが、なにか妙に惹かれる屁理屈でもある。この話は、兼好の死を意識しない現代人への批判が通底しているということだが、私は、この場面を読んで即座にハイデッガーの死の先駆的了解を思い出した。もちろん、ハイデッガー哲学を兼好法師が先取りしていたなどと安易に言いたいわけではない。しかし、だからといって全く無関係ともいえないだろう。

 日本には柄谷行人や東浩紀などの気鋭の哲学者がいるが、古典を参照する哲学者はほとんどいない。そのことが私にとってずっと気になっていたことだった。古典を読むことによって哲学の世界もまた豊かになっていくのではないか。私は古典と同じぐらい、哲学書も読むようにしている。私は、古典学習には哲学的な要素がなければダメだと思っている。たとえば、アガンベンが古代ローマ法から生権力に伴う「抜き出しの生」に注目したように、『万葉集』からなにかしら現代社会を照射する眼差しを獲得することができるかもしれない。どんな読書でも「今」の視点から読むのでなくては意味がない。そのためには、古典を哲学的に読まなければならない。そして、ここに古典は本当に必要なのかという問いへの回答もあるのではないかと思っている。