376冊目『文化と外交』(渡辺靖 中公新書) | 図書礼賛!

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 軍事と経済力だけで外交が思い通りにいくなら、これ以上楽なことはない。ひたすら力の論理で弱者を圧倒すればいいからだ。しかし、そうした強硬的な姿勢は必ず大きな反発を生む。場合によっては、その反発を抑えるために大きなコストをかけることもあるだろう。近代になって、大衆が登場し、参政権を獲得して政治に関わるようになった。このような民主主義が主流になる世界では、世論の存在は無視できないほど大きい。

 ジョセフ・ナイは、軍事・経済力などのハード・パワーが示す外交力とは他に、ソフト・パワーがあるとした。ソフト・パワーは、自国の良さをアピールすることによって、相手国の世論に影響を与え、「心と精神を勝ち取る」ものである。たとえば、中国は中国脅威論などのマイナスイメージを払拭すべく、対外宣伝戦略に約6200憶もかけているらしい。韓国は、2009年に「思いやりのある親しみやすい外交」をスローガンにし、国家ブランド委員会を設立した。世界的な国際映画祭である釜山国際映画祭はこの流れから生まれたものだ。ソフト・パワーは国の威信をかけて取り組むべき課題となったのである。

 しかし、文化外交といわれるこうした手法はいくつかの批判がある。著者によれば、文化外交は、①プロパガンダになりうること、②新自由主義の商品化になりうること、③国益にからめとられること、④文化帝国主義であること、⑤効果が不明であること、⑥政府主導が不可能であること、⑦建前の維持が難しいこと、以上の七点を挙げている。⑦には、多少説明が必要だろう。たとえば、最近では「器の大きさ」と「自省心」をアピールするメタ・ソフト・パワーを要する国が新たなトレンドになっているそうだが、そうした国に対して必要以上に自省を強要し、誠意があるなら金を出せというような相手国の動きがあったとき、いつまでその寛容さを維持できるのかという問題だ。場合によっては、ソフト・パワーの虚構が暴かれかねない。

 たしかにジョセフ・ナイが言う通り、金正恩にハリウッド映画を楽しませても、核兵器開発への意志が変わることはないだろう。そういう意味では、ソフト・パワーは外交力としてどこまで有効なのかわからないところがある。しかし、それでも私はソフト・パワーには新たな可能性があると思っている。第二次世界大戦で焦土と化した沖縄は、1975年に本土復帰記念事業として行われた海洋博覧会を期に、観光を主産業にするため、「戦争の島」というイメージを表に出さないことを戦略的に採用した(多田治『沖縄イメージを旅する』中公新書ラクレ)。大戦時において、沖縄を捨て石にした本土の人間からすれば、かつての戦争の傷跡が残る島には心理的に行きにくい。だからこそ、沖縄の観光産業は戦場のイメージから南国の癒し空間のイメージに変容させた。もちろん、これは次の見方もできる。癒し空間の演出は沖縄戦という悲惨な出来事を風化させ、さらには今でも米軍基地が多く置かれている「戦時中」の現実を本土の人々の目から逸らすことになる(実際、目取真俊はそう批判している)。この批判自体は正しい。しかし、私は、もし沖縄が「戦場の島」というイメージが拘っていたら、沖縄戦の記憶は生き続けていたのだろうかと考える。戦後のメディア表象研究者の五十嵐惠邦が言うように、記憶とは常に風化にさらされながら生き続けるものなのである。記憶は決して化石のような実物ではない。70年代後半以降、観光地化する沖縄で、沖縄戦の記憶の風化に抗う人の危機感、観光客が偶然目にした戦場の傷跡、またその体験を聞く人々の存在、そうした相乗作用によって沖縄戦の記憶は賦活してきたのである。